今考え中だ

こじらせ中年って多いですよね。恋愛市場引退したいような、それでいて、私だってまだまだ的な。「まだまだ、ときめいていたいっ」っていう完璧リア充も多いけど、一方で、わたしなんて、いやー、もう、でも?みたいな人も多いと思うんです。つまらない日常からどうやって目をそらしてこう?というヒントが提示できたらという作品を書いていきたいと思っています。また、考えすぎて頭がバカとか変態になっていしまった方へ向けてのメッセージも込めてます。若い人にも読んでいいただきたい!死ぬからさぁ。

新連載7話:猫とベイビー

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「ゆき、今はそのタイミングかい?」

「タイミングってなんのこと?」

「ほら、さっきゆきが言ってたじゃないか、そのタイミングでって」

「忘れちゃったわ。忘れちゃったけど、きっと今はそのタイミングじゃない」

「そうか」

「ああ、豚ちゃんを見ながら言うのもあれかもしれないけど、そうね、チャーシューメンじゃなくとも、チャーシューとシナチクが大盛りのラーメンが食べたいなあ」

俺は俺の包丁さばきでもって、さっき、ゆきに色目を使った豚を、輪切りにしチャーシューにするさまを想像し、殺気立った。

俺たちは流れるピンクの豚を見ていることしかできなかった。豚たちは今までずっと走るということに憧れていたんじゃないだろうか。いつかの早朝、ひたすらに走ってみたいと、思っていたんじゃないか。もう新宿も諦めかけている今、俺のゆきに色目を使わないのなら、という条件付きで俺も少し優しい気持ちになって豚たちの疾駆を眺めている。それはおそらく条件みたいなものが整ったからなんだろう。タクシーの中をただ前方だけ見つめて走りたいという気分と、つまり諦念だ。このままでは新宿に間に合わない。ゆきが何を今思っているのか聞きたくもない。怖くて聞けない。それなのに姿勢も崩さず、運転手に言う。

「ねえ、運転手さん、エアコン切ってもらえるかしら。私薄着で来ちゃったの」

「ああ、それはうっかりしてました。すみません」

「いいのよ」

 

 その新宿にあるラーメン屋に着いたのは、5時4分だった。俺は飛ぶようにタクシーから降り、閉まっているラーメン屋のシャッターを叩き続けた。俺は必至で叩き続ける。今までの人生は、だいたいサボっていた。そしてそんな人生っていうやつに対して、サボっちゃいけないなどと思わないでここまで来た。それはだってサボっちゃいないもののように、人生は俺の目に映らなかったんだ。24歳になる今まで。不細工でおっぱいの大きい女とセックスした時、確かにめくるめく興奮は感じたが、それに対して真剣になろうなどとは考えなかったし、俺の今までの人生は、たいていサボってもいいもので構成されていて、サボってはいけないと感じる瞬間など、ほとんどなかったんだ。

 しつこくシャッターを叩き続ける俺に、シャッターが目の前で開けられていく。奇跡を起こせる選ばれた人間である俺が、その時奇跡を起こした。そういう風に思えた。今俺は選ばれた人間、そうドラクエで言えば主人公の冒険家、ヒーローだと俺は感じたし、そういった思いに酔いしれていた。そして

「もう、店は閉めたんだ。帰ってくれ」

という坊主で、小太りで、でも腕の筋肉が盛り上がった、「招魂」と書かれた黒いTシャツを着た男に、

「めんてぼを貸してほしい」

と、堂々と言った。

「何寝ぼけてんだ」

その招魂男はそう言って、またシャッターを閉めた。

 

 

 

もし僕が万物の創造主になれたなら

 

君に

 

君によく似た芍薬の大きな花束と

キラキラ輝くダイアモンドと

アンティークなイス

 

みんなみんなプレゼントする

 

もし君がそれらを欲しいと願うのなら

今、僕はどうしたって万物の創造主っていうやつになってやるって

そんな気概が湧いてくるんだ

 

もし君がそれらを欲しいと願うのなら

 

 

 

そうさ、選ばれし奇跡を起こす人間、ヒーローであったって、世の中にはうまくいかないこともある。でももう終わってしまった。俺が本気で真剣になり、サボらないで向き合おうと思っていた、そんな恋愛は、春、咲いた桜の根元を小鳥が蜜をすったせいで、花弁も散らすこともなく、ぽとっと落ちるように、そんな風に終焉を迎えたのさ。なに次がある。そんな風には今現在全く思えないが。

 俺は帰りのタクシーの中で、全く力が出ないでいた。タクシーが右に傾けば「おっとっと」と身体も右に傾く、そんな風だった。俺は「さみしいな」と思う。それは自分の中でも分かっている。ゆきのせいでさみしいんだ。今この時に、今夜チャーシューメンネギどっさりの大盛りを食べてもさみしさが薄れるとはちょっと思えないんだ。俺にとってゆきは運命の人とやらなんだろうか?そしてゆきにとって俺が運命の人だなんて想像できない。俺はいつからここまで気が弱くなってしまったんだろうと思う。除籍になりそうになった時だって、堂々と「中退します」と言えた。でも今、タクシーの中で、何かを言おうたって言えないし、言うことがみつかったとしても「中退します」同様、堂々とは言えっこないんだ。俺は弱々しく、こう言うしかなかった。

「ごめんね。お腹が空いたろう?」

「そうね、確かにお腹は空いたかも」

「ゆきの家に食パンと卵と牛乳と砂糖とバターは、冷蔵庫に入っているのかな?」

「フレンチトースト。それなら私だって自信があるのよ」

緞帳の様な深い緑色のカーテンは開けられ、そしてゆきは窓も開け、今は女の子らしいレースのカーテンがはためいている、そんな気分のいい部屋で、俺はふさぎ込んでいた。さみしいんだ。食パンはなかったらしくて、セブンで買った。そして今、ゆきは黙ってボールに牛乳と卵と砂糖とバニラエッセンスを入れ、泡だて器でといでいる。俺のそばにもバニラエッセンスの香は漂ってきて、さようならというのは甘い香りがするんだっていうことをゆきは教えてくれる。

「ゆき、今はそのタイミングかい?」

「タイミングってなんのこと?」

「ほら、さっきゆきが言ってたじゃないか、そのタイミングでって」

「忘れちゃったわ。忘れちゃったけど、きっと今はそのタイミングじゃない」

「そうか」

「ああ、豚ちゃんを見ながら言うのもあれかもしれないけど、そうね、チャーシューメンじゃなくとも、チャーシューとシナチクが大盛りのラーメンが食べたいなあ」

俺は俺の包丁さばきでもって、さっき、ゆきに色目を使った豚を、輪切りにしチャーシューにするさまを想像し、殺気立った。

俺たちは流れるピンクの豚を見ていることしかできなかった。豚たちは今までずっと走るということに憧れていたんじゃないだろうか。いつかの早朝、ひたすらに走ってみたいと、思っていたんじゃないか。もう新宿も諦めかけている今、俺のゆきに色目を使わないのなら、という条件付きで俺も少し優しい気持ちになって豚たちの疾駆を眺めている。それはおそらく条件みたいなものが整ったからなんだろう。タクシーの中をただ前方だけ見つめて走りたいという気分と、つまり諦念だ。このままでは新宿に間に合わない。ゆきが何を今思っているのか聞きたくもない。怖くて聞けない。それなのに姿勢も崩さず、運転手に言う。

「ねえ、運転手さん、エアコン切ってもらえるかしら。私薄着で来ちゃったの」

「ああ、それはうっかりしてました。すみません」

「いいのよ」

 

 その新宿にあるラーメン屋に着いたのは、5時4分だった。俺は飛ぶようにタクシーから降り、閉まっているラーメン屋のシャッターを叩き続けた。俺は必至で叩き続ける。今までの人生は、だいたいサボっていた。そしてそんな人生っていうやつに対して、サボっちゃいけないなどと思わないでここまで来た。それはだってサボっちゃいないもののように、人生は俺の目に映らなかったんだ。24歳になる今まで。不細工でおっぱいの大きい女とセックスした時、確かにめくるめく興奮は感じたが、それに対して真剣になろうなどとは考えなかったし、俺の今までの人生は、たいていサボってもいいもので構成されていて、サボってはいけないと感じる瞬間など、ほとんどなかったんだ。

 しつこくシャッターを叩き続ける俺に、シャッターが目の前で開けられていく。奇跡を起こせる選ばれた人間である俺が、その時奇跡を起こした。そういう風に思えた。今俺は選ばれた人間、そうドラクエで言えば主人公の冒険家、ヒーローだと俺は感じたし、そういった思いに酔いしれていた。そして

「もう、店は閉めたんだ。帰ってくれ」

という坊主で、小太りで、でも腕の筋肉が盛り上がった、「招魂」と書かれた黒いTシャツを着た男に、

「めんてぼを貸してほしい」

と、堂々と言った。

「何寝ぼけてんだ」

その招魂男はそう言って、またシャッターを閉めた。

 

 

 

もし僕が万物の創造主になれたなら

 

君に

 

君によく似た芍薬の大きな花束と

キラキラ輝くダイアモンドと

アンティークなイス

 

みんなみんなプレゼントする

 

もし君がそれらを欲しいと願うのなら

今、僕はどうしたって万物の創造主っていうやつになってやるって

そんな気概が湧いてくるんだ

 

もし君がそれらを欲しいと願うのなら

 

 

 

そうさ、選ばれし奇跡を起こす人間、ヒーローであったって、世の中にはうまくいかないこともある。でももう終わってしまった。俺が本気で真剣になり、サボらないで向き合おうと思っていた、そんな恋愛は、春、咲いた桜の根元を小鳥が蜜をすったせいで、花弁も散らすこともなく、ぽとっと落ちるように、そんな風に終焉を迎えたのさ。なに次がある。そんな風には今現在全く思えないが。

 俺は帰りのタクシーの中で、全く力が出ないでいた。タクシーが右に傾けば「おっとっと」と身体も右に傾く、そんな風だった。俺は「さみしいな」と思う。それは自分の中でも分かっている。ゆきのせいでさみしいんだ。今この時に、今夜チャーシューメンネギどっさりの大盛りを食べてもさみしさが薄れるとはちょっと思えないんだ。俺にとってゆきは運命の人とやらなんだろうか?そしてゆきにとって俺が運命の人だなんて想像できない。俺はいつからここまで気が弱くなってしまったんだろうと思う。除籍になりそうになった時だって、堂々と「中退します」と言えた。でも今、タクシーの中で、何かを言おうたって言えないし、言うことがみつかったとしても「中退します」同様、堂々とは言えっこないんだ。俺は弱々しく、こう言うしかなかった。

「ごめんね。お腹が空いたろう?」

「そうね、確かにお腹は空いたかも」

「ゆきの家に食パンと卵と牛乳と砂糖とバターは、冷蔵庫に入っているのかな?」

「フレンチトースト。それなら私だって自信があるのよ」

緞帳の様な深い緑色のカーテンは開けられ、そしてゆきは窓も開け、今は女の子らしいレースのカーテンがはためいている、そんな気分のいい部屋で、俺はふさぎ込んでいた。さみしいんだ。食パンはなかったらしくて、セブンで買った。そして今、ゆきは黙ってボールに牛乳と卵と砂糖とバニラエッセンスを入れ、泡だて器でといでいる。俺のそばにもバニラエッセンスの香は漂ってきて、さようならというのは甘い香りがするんだっていうことをゆきは教えてくれる。そして卵液をかけられた食パンをレンジで数秒温め、卵液をたっぷり含んだ食パンは、たっぷりのバターを溶かされたフライパンで焼かれていく。そうなんだな。こういった別れというのは、俺にとって「惜別」というものなのだろうと思う。

 ゆきが作ったフレンチトーストは、俺が作るフレンチトーストより甘く、おいしかった。そしてそれを食べつくした今、それでも空腹でもなければ満腹でもない。俺がゆきに振られるだろうと思い、それを何とか回避したいと思い、諦めるしかないのかもしれないと思い、という中、俺は空腹感をなぜか忘れていた。そしてゆきに土下座したいという気持ちをさっきから抑えている。本当は今土下座をして、ラーメン屋で働くという特性しかない俺が、デート6回目で結局ラーメンを作ることができなかったことを謝り倒したいんだ。ゆきは

「いいのよ」

そう言ってくれるんだろうか?いや、俺はラーメン屋で働くという特性しかないとゆ

きははじめっからそう思っている。いまさら。いまさらなんだ。

 俺は突然、毛足の長いグレーのカーペットの上に正座した。

「ゆき、俺にとってもそのタイミングだと思うし、ゆきにとってもそうだって思うんだ。つまり俺はラーメン屋を辞める。俺はフリーターである俺を、酔っていたせいかくわしくは思い出せないんだが、確か内向的先進性とたとえたことがあるような気がする。本当いうとそんなことは思っちゃいない。ただ、大学入学時からラーメン屋で働き、それが今までずるずると続いていた。それだけなんだ。己のことを先進性なんてこれっぽっちも思っちゃいない。ただ、何かを始めるっていう勇気はあるけれど、それが成功するっていうことは、俺の人生にないような気がしていたからなんだ。だからだ、ゆきと出会ったその日から思っていたことを、今話したい。俺は努力して政治なんかも学び、ついでにマルクスエンゲルス資本論など読んだりして、区議会議員になろうと思うんだ。そして次のステップは区長、そして都議会議員、そしえて都知事、そしてそれから国政に打って出る。もしかしたら総理大臣だって任されるかもしれない。総理大臣ともなれば、スケジュールは分刻み、疲れ果て眠るだけの生活になるかもしれない。けれど。けれどだ。俺はそんなときも必ず、ゆきに電話をかける。そしてゆきがお腹が空いているのなら、ゆきの手を煩わせることなく、すぐにゆきのこの部屋に駆けつけ、ラーメンを作る。そのとき必ず俺はめんてぼを持っている。河童橋で買うのさ。そう、マイめんてぼ」

 ゆきが作ったフレンチトーストは、俺が作るフレンチトーストより甘く、おいしかった。そしてそれを食べつくした今、それでも空腹でもなければ満腹でもない。俺がゆきに振られるだろうと思い、それを何とか回避したいと思い、諦めるしかないのかもしれないと思い、という中、俺は空腹感をなぜか忘れていた。そしてゆきに土下座したいという気持ちをさっきから抑えている。本当は今土下座をして、ラーメン屋で働くという特性しかない俺が、デート6回目で結局ラーメンを作ることができなかったことを謝り倒したいんだ。ゆきは

「いいのよ」

そう言ってくれるんだろうか?いや、俺はラーメン屋で働くという特性しかないとゆ

きははじめっからそう思っている。いまさら。いまさらなんだ。

 俺は突然、毛足の長いグレーのカーペットの上に正座した。

「ゆき、俺にとってもそのタイミングだと思うし、ゆきにとってもそうだって思うんだ。つまり俺はラーメン屋を辞める。俺はフリーターである俺を、酔っていたせいかくわしくは思い出せないんだが、確か内向的先進性とたとえたことがあるような気がする。本当いうとそんなことは思っちゃいない。ただ、大学入学時からラーメン屋で働き、それが今までずるずると続いていた。それだけなんだ。己のことを先進性なんてこれっぽっちも思っちゃいない。ただ、何かを始めるっていう勇気はあるけれど、それが成功するっていうことは、俺の人生にないような気がしていたからなんだ。だからだ、ゆきと出会ったその日から思っていたことを、今話したい。俺は努力して政治なんかも学び、ついでにマルクスエンゲルス資本論など読んだりして、区議会議員になろうと思うんだ。そして次のステップは区長、そして都議会議員、そしえて都知事、そしてそれから国政に打って出る。もしかしたら総理大臣だって任されるかもしれない。総理大臣ともなれば、スケジュールは分刻み、疲れ果て眠るだけの生活になるかもしれない。けれど。けれどだ。俺はそんなときも必ず、ゆきに電話をかける。そしてゆきがお腹が空いているのなら、ゆきの手を煩わせることなく、すぐにゆきのこの部屋に駆けつけ、ラーメンを作る。そのとき必ず俺はめんてぼを持っている。河童橋で買うのさ。そう、マイめんてぼ」

 

新連載6:猫とベイビー

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俺の気に入っているディーゼルの黄色い腕時計を見ると今3時40分だ。分からない。よくわからない。間に合いそうにない。もし間に合わなかったら、何度も味わっている絶望だが、その時に世界で最も大きな絶望が俺を見舞うのだろう。そして俺は立っていられるのだろか。俺はラーメン屋で働いている。ゆきはつまり、ラーメン屋で働いているから、その特性のみで俺を選んだというのなら、俺は必ずラーメンを作らなくてはならないんだ。でも間に合いそうもない。

「ゆき、俺の当てにしていた、俺の働くラーメン屋の店主の3番弟子の親友のやっているラーメン屋でめんてぼを借りることは諦めざるを得ないんだ。時間的にね。どうすればいいだろう?」

俺は俺の臆病さを隠し、必死で「それは大した事でもないんだけど」と言うように聞こえるよう画策した。

「健二君が「当てがある」って言ったのよ。そういう時に時間を計算しないで、こうして深夜に大通りに立つなんて馬鹿げてる。がっかりよ」

馬鹿げてる。そうだった。俺が中退した大学はバカで有名な大学だった。バカで有名な大学だったのに、ビールを飲みながらギターを弾いていたら、除籍になりそうになって、ギリギリセーフで中退となった。そうなんだ。それ以来してきたことと言えば、男ならだれでもする行為と、ラーメンを作る、それしかやってこなかった。俺はゆきをがっかりさせるほどにバカなんだ。でもその時、徐々に太陽が空を青く染めだしたんだ。俺はよく知らなかったけれど、朝を染める太陽っていうのはオレンジ色ではないだ。でも夕日だって太陽だろう。それは空をオレンジだったり、紫だったり、赤かったりいろんな色に染める。それなのにどうやら朝日ってやつは空を、人に洗濯を誘うような、そんな青に染めるらしい。洗濯っていうやつはたいてい朝やるものだ。

「ゆき。俺は思いついたんだ。俺には縁もゆかりもないラーメン屋だけど、新宿で5時までやっているラーメン屋に行ったことがあるんだ」

「そこでめんてぼを借りるってわけ?」

「そうだ。今なら間に合うと思う。俺は断固として譲らず、必ずめんてぼを借りてみせる」

そして俺は勇み立って

「ヘイ、タクシー!」

と叫んだんだ。するとタクシーが遠くから見え、ゆきも

「タクシーよ!」

と叫び、ゆきはスカートをひらりとさせ、ひらっとガードレールをまたぎ、今度はゆきが

「ヘイ、タクシー!」

と叫んだ。タクシーは固いクッションにぶち当たるように止まり、俺たちを乗せてくれた。

「新宿まで」

俺はそう言ってバッグシートにもたれかかり

「ゆき、奇跡みたいじゃなかったか?奇跡ってあるんだな」

と言うと、ゆきは

「奇跡を起こせる人と、起せない人がいて、起せる人だっていつもいつも奇跡を起こせるわけじゃない。私はその奇跡を起こせる人が奇跡を起こす方法を知っているけど、教えないわ」

俺はその言葉に、ふーんと言って、運転手に告げた。

「とても急いでるんだ」

「じゃあ、高速乗りましょうか?」

「了解だ。そうしてくれ」

俺は早く走っていく景色たちが好きだ。子供のころからそうだった。母親にそういうと、たかが珍来のパートのくせして、俺に、それは「景色が移り変わる」っていう風に表現したほうがいいんだ、と口をとがらせて教えた。でもその時だって、今になったって、俺はタクシーの窓から見える景色は「走っていく」っていう風に見える。そしてタクシーが首都高に乗りグレーの壁しか見えなくなったって、そのグレーの壁は走っているんだ。

 そして俺ははっとした。男子たるもの彼女を、いや、ゆきを退屈させてはいけないのだ。そしてゆきの方を見ると、ゆきも車窓の方を向いていた。

「ゆき、何を見てるんだ?」

「何言ってるの。健二君がみているものと一緒よ。グレーの壁を見ているのよ」

「すまない」

「私今後、健二君が謝ったら、何を謝るの?って聞かず、いいのよ、そう答えるようにするわ」

「すまない」

「いいのよ」

「ゆき、あのな、俺はただの時給で働くラーメン屋の従業員で終わることはないんだ」

「そういう話なら、そういうタイミングが来たら聞くわ。多分そういう話って、私自身が聞く用意がなければ聞けない話だって思うの。つまりお腹が空いているときにそういう話って聞く準備ができてないのよ」

「すまない」

「いいのよ」

 

 ピンクフロイドが首都高でイベントでもやっているのだろうか?やけにピンクの豚、オトナ豚もコドモ豚も、首都高を疾駆している。

「豚ね」

ゆきが言う。

「ああ」

俺も言う。

「豚ですねえ」

運転手も言う。

俺たちが乗っているタクシーは透明で運転手もゆきも俺も透明な人間になってしまったような気がする。その脇を豚が真剣な顔をして走っている。ゆきは豚を見ながら言う。

「風が強いか、それほどでもないのかっていうのは、風にはためく洗濯物や、飛ばされた帽子によって表現されるわ。そうでしょう?」

「ああ、確かにそうですよねえ」

運転手が答えた。俺はゆきの独り言に近い、風の表現法に対する答えとしては、この運転手の答え方は大げさなような気がする。この運転手はもしかしたら、もう、このゆきに惚れているんじゃないだろうか、そう思う。そして俺は徹底的にこの運転手を無視することに決めた。

 車は止まった。警察官が警棒を回しながら近寄り、運転手が窓を開けると、

「いや、10キロ先で豚を乗せたトレーラーが横転しちゃってねえ、しばらく通行止めなんだ。すまないね」

俺の心は「どうして謝るの?」でもないし、「いいのよ」でもないんだ。馬鹿野郎。そんな気持ちなんだ。どうして最初っから最後まで俺たちの出会いと俺のゆきへの焦るような、そんな切羽詰まった思いを、何かが阻むんだ?もっとスムーズであっていいはずだ。その豚たちがトレーラーから逃げ出した豚たちではなく、ピンクフロイドの余興であったなら、俺はここまで焦らなかったかもしれないんだ。

 

 ゆきは後部座席の左側に座っていた。そのゆきの座る窓に、大きな豚が、鼻っ面を突き付け、ブヒブヒと鳴いている。そして運転手がエンジンを入れると同時に、去っていった。

「豚も美人には弱いのかな?」

馬鹿野郎、俺のゆきを簡単に「美人」だなんて言うんじゃねえ。そりゃ美人だろうが。

俺はあくまでも運転手の言葉を無視した。窓にははっきりとさっきの豚の鼻の跡がついている。

「やあだあ、なあに、今の豚ちゃん。かわいい!飼えるものなら、飼ってみたいなあ」

とゆきが言う。

そりゃそうかも知れない。俺は心の内で独り言つ。あの豚野郎、きっとオスなんだろう。多分俺よりはるかに上回る、ビッグマグナムと、大きく垂れ下がる玉を持っているんだろう。俺の女、俺のゆきに簡単に、そして直截に色目を使いやがって。しかもゆきに、「飼いたい」なんて言われやがって。俺はそんな最上級の言葉で表現されたあの豚が俺は猛烈に羨ましかったんだ。つまり飼われたいと切望しているのは、あんな豚野郎ではなく、俺なんだ。

 

新連載5:猫とベイビー

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俺は地雷を踏んでしまった。ゆきはめんてぼの描写を俺になおされたことが我慢ならなかったらしく、へそを曲げた。

「ゆき、覚えているかい?俺がゆきに差し出した花は、決して俺のへその緒なんかじゃない。シロツメクサだ」

「じゃあ、私も言わせてもらえば、シロツメクサはその一本で完成していないのよ。首飾りになって初めてシロツメクサって完成される」

 どうもゆきは、もしかしたら本気で、無茶苦茶本気で、無茶苦茶腹が減っているのしれないと思うに至った。なぜならば、昨夜よりヘビースモーカーになっているし、コーヒーを何杯も飲むし、すっぴんで電気をつけているからだ。ゆきが吸うたばこはマルボロのゴールドだ。それほど多くの人が、マルボロのゴールドを吸ってはいない。けれどゆきはマルボロのゴールドを吸っている。

「そのすっぴんっで電気をつけてるっていうことの意味だけど」

俺が話し出すと、すぐにゆきは言った。ファンデーションよりさらに色が白い。血管の通り道をマジックペンで書いたら面白いだろうななどと思いながら、ゆきの話を聞く。

「あのね、そういうことって、もうどうだっていいのよ。あなたって、ちょっとめんどくさいわ。ああ、お腹が空いているせいで、部屋の掃除をできなくなって、それによって指を負傷してしまったら、健二君のせいだと思う。ウインナーをあんなにも遠慮なく食べてしまうなんて」

俺はさらにさらに絶望を禁じ得ない。おれをゆきは「めんどくさい」と表現した。俺は思う。今青木が原の樹海に入ろうとしている人がいたら、右腕を差し出し手を握り合い、

「お互いよくやったよな。でもどうしてもままならないことは人生にはあるし、それを自分で修正しようと思っても出来ないことだってある。成功を祈るよ。そして君も俺の成功を祈ってくれ。グッジョブ。もう会うことはないだろうけど」

俺たちは名残惜しくハグを繰り返す。そして俺たちは何回か「さよなら」を言い合い、青木が原の樹海、別々の方向へ歩いていく。

「ああ、」

俺はうっかりそんな言葉を漏らしてしまった。目の焦点をゆきに戻すと、ゆきは機嫌が悪そうだ。そしてそんな「機嫌が悪い」なんていう表情や表現を俺に見せてくれるのだから、俺は光栄と思わなきゃいけないのかなと思う。俺はいったいゆきの彼氏なんだろうか。そもそもそこから怪しい。でもそんなことを尋ねるほど俺の肝っ玉は強くもない。固さもない。そんなことを考えている俺だから、6年間彼女も出来ず、のぞき部屋で吐き気を催したんだ。そんな俺はめんとくさい。ああ、そうさ、めんどくさいのさ。

 空がどんな色をしているのか、はっきりは若らない。「ピアノ」という言葉で簡単に想起される様な、深い緑色の厚いカーテンが垂れ下がっている。「ピアノ」らしくそれに模様などついていない。

 「ねえ、もうそういうのいいから、めんてぼを探す旅に出ましょうよ。確かに私たちにとって、めんてぼを手に入れるのは急務よ。けれど私はそんな風に男性を焦らせるようなバカな女でもないの。わかってくれているわよね?」

「うん。もちろん」

「そしてそれはあてもない旅になるんでしょうね。きっと」

「いや、あてはあるんだ。うちのラーメン屋の店主の3番弟子の親友っていうやつが中野でラーメン屋をやっている。早朝4時までその店はやってるんだ。今なら間に合うかもしれない」

 俺が昔付き合った女で、結構おれも思い入れのあった女がいた。その女はラブホでことを終え、何もかも俺は念入りに観察したその身体を、隠そうとはしないのに、着替えをするところは見ないでくれ、そう俺に言ったんだ。じゃあ、俺はこっちを向いているから、と俺は窓の方を向いていたのに、タバコをとりたくて、少しだけ振り向いてしまったんだ。その時その女はブラジャーとパンツをつけ、一生懸命ストッキングをはいている最中だった。女はおれの目線にすぐ気が付き、俺をパーンッと思いっきり殴った。その女はおれを着信拒否にし、俺はなんだか大事なものをうっかりなくしてしまったような気がしたが、今思うと、何をかっこつけた女だったんだ、そういう風にしか思えなくなっている。そうだ、ゆき以外の女には、何かしらの欠点があるような気がしてしょうがない。その女たちのそれらの欠点は、きっと俺にとって許しがたいに違いないんだ。少し名残惜しかったり、さみしかったとしても、チャーシューメン大盛りを食べれば忘れてしまう。それらの女はきっとそんな風なんだ。

 ゆきは部屋の隅で着替えはじめた。クローゼットからノースリーブの白いブラウスと黒いスカートを出して、まず初めに俺の行為によってめちゃくちゃにされてしまった、タンクトップとショートパンツを脱いで、まずブラウスを着て、それをインしてスカートを履く。オードリー丈の上品なスカートだ。その着替え方はとても理にかなっている。そんな着替え方をできるゆきをもういっそう好きになってしまう。でもうちの父親も、確か靴下を履いてから股引を履いていたっけと思い出す。それもとても理にかなった着替え方だ。

 俺たちは大通りに出て手を振った。深夜3時半に走っているタクシーは案外少なく、俺たちは急いでいる。そして時間の中に停滞などない。それは矛盾だ。そして俺たちも時間の中にいるのに停滞を余儀なくされている今、それは矛盾なのだろうか。多分違うだろう。アインシュタインは実を言うと読んでいない。ゆきは頭上で光る、街灯を見上げ、まぶしいのか目を少し細くしている。その光景を見ながら俺はこう理解した。おそらく、すっぴんの女ってやつは、少しの光もまぶしく感じるらしい。

「少し寒いわ。カーディガンを羽織ってくればよかった。外がこんなに寒いなんて、昨日からずっと部屋にこもっていれば、分からなくなるわよね」

「ごめん」

俺はなぜか誤ってしまった。俺はなんだか、しょっちゅうゆきに謝りたくなるんだ。どうしてかは分からない。なんだか無性に謝りたくなる。俺は普段は俺が悪いな、と思ったって、めったに謝らない。アラブ人ではないが、俺は謝ると負けを認めるような気がして、それは俺の強さではなく、俺の心弱さから、謝れなくなってしまうんだ。そう、もちろん今だって。それはなおさら俺は心弱い気分を連続して感じている。ゆきに対してだ。それなのに、ゆきにはやけに謝ってしまう。俺が何もかも悪いのさ。そうだ、ゆきはいついかなる時も正しいんだ。

「なんで謝るの?」

とゆきが言う。

「俺がタクシーを捕まえられないから、ゆきに寒い思いをさせちゃってさ」

と言うと、

「何それ?タクシーが通らないのに、タクシーを捕まえるすべはないわ。少し変よ」

「そうだよな、そうだ、タクシーが通らない。ゆきが寒いのはそのせいだ」

 

新連載4:猫とベイビー

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かなり長いことトイレに入っていたらしい。ゆきはタオルケットにくるまるようにして、寝息を立てていた。もちろん俺もその傍らに横になるつもりだった。そして寝ているゆきに異常に興奮を覚えたんだ。はじめは柔らかく背に腕を回して起こそうとしたが、次の瞬間少し乱暴にタンクトップをまくり上げ、ショートパンツも脱がせて

「何?」

というゆきの口をふさいだ。俺は結局柔らかく、キズなどつけないよう、丁寧に抱こうと思ってたんだけど、そうできなかったんだ。そして俺がトイレから出てきたとき、もしゆきの目がパッチリ開いていたら、そんな第2戦目はなかったんだと思う。もしゆきが目を開けていて、第2戦目を始めたとしたら、第1戦目と同じ結果に終わったと思うんだ。もし目に意志が宿っていたら。

 

もし僕が万物の創造主になれたなら

 

君に

 

君によく似た芍薬の大きな花束と

キラキラ輝くダイアモンドと

アンティークなイス

 

みんなみんなプレゼントする

 

もし君がそれらを欲しいと願うのなら

今、僕はどうしたって万物の創造主っていうやつになってやるって

そんな気概が湧いてくるんだ

 

もし君がそれらを欲しいと願うのなら

 

 

 

深夜3時過ぎ、俺はゆきに起こされた。物腰が優しく、っていう起こしかたじゃないんだ。俺は何発もゆきにびんだをされた。俺は一瞬何が起きているのか分からず、

「なんだよ」

と声を荒げてしまったら、

「最近じゃ、とんとモテないんでしょう」

とつまらなそうに言って、またびんたをする。俺はだんだん理解した。この部屋はゆきの部屋でさっき、ゆきを抱いたんだっけ。今俺の顔をびんたしているのはゆきだ。

そして俺は「なんだよ」と昔モテたころの女に対するような、そんなぞんざいな言葉と態度をとってしまったことを、突然の歯痛のように後悔する。

 そして目を開け起きると、そこにすっぴんのゆきがいて、なおも俺の顔をびんたし続けようとしたので、俺はあわてて、ゆきの腕をつかんだ。そうさ、俺は小学校の頃、少林寺拳法を習っていたんだ。

 それにしてもゆきはすっぴんだった。昨夜は確か「そこまでは、親しくない」とかそんなことを言っていなかったっけ?俺は首肯し、確かに了解だ、という旨をゆきに伝えたはずなんだ。それともなんていうんだろう、したからと、それを指して、「俺と親しくなった」とゆきの中で思ってくれたんだろうか。

 「私が電気をつけて私がすっぴんでいることに対して、何らかの意味をつけないで頂戴ね。そして何度も『健二君』と呼んでも、身体をゆすっても、健二君は目を覚まさなかった。それでびんたを繰り返した。何回ものびんたに対する意味はそれよ」

「俺を、親しい男と認めてくれたのか?」

「さあね」

見るとコーヒーテーブルに満載だった、空き缶や菓子の袋、ウインナーが盛られていた皿なんかは、きれいに片づけられていた。そして俺がウインナーを食べるた時に汚してしまったケチャップの跡も消え去っている。布巾でテーブルはきれいに拭かれたのだろう。そのテーブルに青くて、蓋のある灰皿で、ゆきはたばこを吸っている。その動作は柔らかいものの、女郎のような、なんていうだろう、女性がやけっぱちになって、「どうでもいいのよ。疲れてるんだから早くして」というような雰囲気が漂っているんだ。俺は少し理解した。セックスを終えて変わるのは男だけじゃない。女もだ。しかし俺たちのケースの場合、変わったのはゆきで、俺は変われないんだ。どうしてかっていうと俺は、何かを手に入れたっていう、安心感を持てないでいる。

 「とにかく私はお腹が空いたの」

ゆきはたばこを吸い終えると、ベッドで上半身を起こし、ぼんやりしている俺に言う。

「あなたはラーメン屋でしょう?それ以外の特性なんて見当たらないわ。ラーメンを作ってちょうだい」

俺は絶望した。どうやらゆきが俺を選んだのは、俺が、ラーメン屋で働いている24歳、いや、「ラーメン屋で働いている」かららしい。それ以外の特性なんて見当たらない。俺はこれからどうして生きていけばいいのだろう。そこまで絶望した。死ぬしかないのだろうか?俺はラーメン屋で時給で奴隷のように働いて、動けなくなったら、介護ヘルパーを呼び、下と風呂の世話をしてもらい、そしてしばらく生き、そして死んでいく。そんな未来しか俺にはないのならば、今いっそ死んでしまった方がいいんじゃないだろうか。そして再度回顧するんだ。もしかして俺が大学を結果中退となったのは、俺が自分自身で思っているほど、モテなかった。そこに尽きるのではないかと。ラーメン屋に働く女だっている。ちょっと可愛い子だっている。俺はそんな子がバイトとして入ってくると、少し意識してしまう。でも彼氏がいたりとか、ほかの奴にかっさらわれたりとか、そんな風に尻すぼみになってしまう。そうだ。多分大学入学時18歳から今まで、計6年間俺はモテていない。というか女性と付き合っていない。一回のぞき部屋にいったことはある。それだけだ。そののぞき部屋で体験したことは猛烈な「助けてくれ!」という誰に助けてもらいたいのか分からないが、そんな気持ちと、自分がどんどんバラバラになっていくような、そんな吐き気がするような気分を味わった。それだけだったんだ。だから俺はデートの6回、その

間喫茶店でゆきの爪しか見ることができなかったのだし、うまくふるまえなかったんだ。過去、そうだ、俺が感じるより遠い過去なんだ。その過去、中学高校とモテたって、それはずいぶん前の話で、俺は今現在モテるっていう男じゃないのかもしれない。だからゆきだって俺にラーメン屋以外の特性を見つけられなかったんだろう。俺は黙って作戦を練った。俺にラーメン屋であるという以外の特性が、今現在ないのならば、それ以外の特性を身に着けるほかはないのかもしれないが、とりあえず現在、ゆきが俺がラーメン屋で働くという特性で俺を選んだのだとしたら、今の急務はおいしいラーメンを作ること、それ以外にないんじゃないだろうか。しかし困った問題が、俺とゆきの恋路を阻む。

「めんてぼがないんだ」

「めんてぼ?」

「うん、めんてぼだ。俺はその『めんてぼ』を漢字で書くすべがあるのかさえわかっちゃいない。けれどラーメンを作るには、絶対にめんてぼが必要なんだ。めんてぼ。これを俺が今持っていたらなあ!」

「めんてぼ?それって何をするためのものなの?」

「ほら、ラーメン屋でカウンターに座ると、見ることがないかい?あの麺をシャン、シャン、シャンとする奴。あれなんだ」

「ああ、私も見たことがあるわ。しゃしゃしゃってやるやつね」

「違うんだ。しゃしゃしゃじゃない。シャン、シャン、シャンってやるやつだ」

 

 

 

新連載3:猫とベイビー

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「ずいぶん長かったわね」

「うん、バスタブのある風呂って久しぶりだったんだよ。俺の部屋にはシャワーしかないんだ。けれど、いずれはバスタブのあるマンションに引っ越そうと思ってる。ちなみにそれは近々なんだ」

と俺も自分で言いながら、妙だな、と思えることを言った。

「私もシャワーを浴びるから、少し照明を暗くしていい?」

とゆきが言う。

「なんで?」

「まだすっぴんを見られるほど、そこまで親しいわけじゃないっていう風に、私には思えるの。健二君がどう考えるのかは分からなけど」

「OK。ゆきがそうしたいなら、それでいい。いつか太陽の下ですっぴんを見せてくれる日が来るって俺には確信があるから」

うそだ。そんな確信などない。ゆきに嫌われたくない。そう切実に願っているだけだ。俺は茫漠たる未来に光があると一瞬思ったが、ゆきがシャワーを浴び、一人きりで暗い部屋にいると、いつかゆきが俺を捨てるのは間違いがないことのように思える。俺はトランクスとTシャツという格好で、コーヒーテーブルに置かれた発泡酒や氷結の間を一つずつ振っていって、やっと入っている氷結を見つけ、一気に飲み干した。そのゆきに振られた後の俺は光なんて見えないままラーメン屋で働いているだけの、そうモテたりなんてしない、そんな24歳に戻るのだろう。そしてしつこいようだが、その時に絶対に希望なんて見えないんだ。

 ゆきが風呂に入っている間は未来永劫っていう風に思えた。もうゆきはゆきだから風呂で溶けてしまったんだ。そんなことも思ってみたりした。酔っていたんだろう。するとゆきが髪を濡らしながら、風呂から出てくると、一日中主人の帰りを待っていた子犬のように、俺はぶんぶんしっぽを振りたい気分で、

「早かったな」

「そう?私いつもそんな風よ」

ゆきはタンクトップにショートパンツといった格好だということは、この暗い照明でもなんとなく分かる。

 俺は高校1年の時、童貞を失ったわけだが、その時、常に草食に思われていた俺が、ベッドでは激しく肉食だったと、たいして好きだったわけじゃない、不細工でおっぱいの大きい女に、学校中に触れ回られた。ベッドでの行いを触れ回られるっていうのは、ゆかいじゃないが、草食に見える俺が、実は肉食だったとい噂は俺をモテる男に仕立て上げた。だから、もしかしたら、その不細工でおっぱいの大きい女には感謝すべきだったのかもしれないが、俺は俺に次に告白をしてきた、少しだけかわいい子にすぐに乗り換えた。そうだ、俺はベッドでは暴れてしまう。けれど今宵はすっぴんを見せられないと、そんな風に言うゆきを肉食でもって襲うつもりは毛頭なかった。ただシングルのベッドで添い寝をする。そんなつもりでいた。ドライヤーを使う音がする。結構長い時間に感じる。俺はダメになったなと思う。惚れた女が、洗面所から中々姿を現さないだけで、不安になっちまう。そして何か話しかけたくなっちまう。

 俺はふと、そうだ、しょんべんをしたいと思って、あれからどれくらいの時間が経つのだろう、そう思いだしたんだ。そして少し酔っていたせいもあるのか、ゆきの部屋で、俺の部屋で用を足す方法とまったく同じ行動をとってしまったんだ。つまりトイレのドアを閉めないまま、じゃーと用を足す、そういう行為だ。かなり長い時間我慢していたようで、長時間のじゃーは続いた。トイレの電機はつけてある。するとゆきがトイレの照明に照らされながら、俺を見て笑っている。俺は落胆を禁じえない。ご両親は掃除マニアのピアノの先生。トイレのドアを開けっぱなしで用は足さないだろう。もしかしたら今までのゆきの彼氏だって、名家の出かもしれない。俺は道路工事の監督と、珍来でのパートをしていた親の息子だ。うちの父親だってトイレのドアは小便に限ってはトイレのドアは開けっぱなしだった。

 「もう休みましょう?」

ゆきが言った。俺たちは重なるようにシングルベッドで横になり、そしてゆきは黙っている。俺も寝ようとした。さっきまで俺は酔っていたはずだ。眠れるはずなんだ。そしてゆきは、それはいつもどのくらい飲むのか知らないが、目が少し眠たそうな目になっていたのを俺は照明を暗くする前に見ている。そうだ。ゆきもすぐに眠るだろう。眠ることに反抗しないことに決めてはみたが、ゆきに何かを話しかけたくなる。でもそうしちゃいけないんだとこらえる。

 するとゆきが突然上半身を起き上がらせる。

「どうした?」

「どうもしないけど、」

「どうもしない?」

次の瞬間、ゆきはおれの首に両腕を回し抱きしめた。

「健二君って、首が案外太いんだよね。はじめっから気づいてた」

 

 俺は正直感動した。ゆきも積極的とは言えるのかもしれない。自宅へ招き、終電に急かさず、俺にシャワーを勧める。けど違うんだ。俺が高校時代の肉食期、積極的な女はいくらでもいたし、急かす女もいた。でもゆきは違うんだ。優しい、そんな物腰。柔らかくて華奢な腕、甘える風でもなく急かす風でもなく、そういうふうにしてみたかったと身体と少しの言葉だけで、表現した。

 ゆきを抱きかかえながら、もう一回横にする。

「あのな、ゆき、村上春樹の、確かノルウェイの森だったかな、その作品の中にね、すごく印象深く覚えていてるシーンがあって、それっていうのは蛍を逃がすシーンなんだ。俺も少し真似してみたんだ。ワードを使うとか、そういうんじゃない。ただ、ノートにシャーペンで書いてみたんだ。それは蛍ではなく、カナブンでね。カナブンが屋上で少しためらうようにとどまり、小さく羽を震わせはじめると、カナブンは飛んでいくんだ。突然にね。なにを言いたいって特にないんだ。それは小説ではないし、始まりと終わりがある文章でもない。でもね、でもうまく書けた。そう思ったんだ」

「うん」

 

 そして一回目は失敗したんだ。暴発じゃない。その反対だ。俺は突然腹が痛くなったと言ってトイレに鍵をかけこもった。そして想起するわけだ。今までの性的経験。ある女は体が柔らかくて、アクロバティックな体位さえできた。ドスケベな女だっていた。そして思い返す。今まで見たAVで一番興奮したのって、なんだっけ?

 

新連載2:猫とベイビー

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彼女の部屋は目黒の川沿いにあり、こじんまりしているが、新しそうな、きれいなマンションだった。ゆきの部屋にはグレーの毛足の長いカーペットが敷かれていて、その毛足が一糸乱れず同じ方向を向いている。ゆきに差し出されたスリッパを玄関で履いてみても、そのスリッパを履いて出さえ、そのカーペットの上に乗るのはためらわれるようだった。ゆきは

「入ってよ」

と笑顔を見せて言い、ゆきはコーヒーメーカーにスイッチを入れている。俺は恐る恐る入った。

ゆきの部屋はなんていうのか、俺はあまりそういうことに疎くて分からないが、、アンティークの家具が品よく並べられ、ホコリがどこにあるっていうんだっていう風に、掃除されている。それでもベッドサイドに置かれたテーブルに散らかっておかれたアクセサリーを見てやっと俺も安心できたというか、リラックスできた。

「毎日掃除するの?」

と俺が聞くと、

「うん、変かもしれないけど毎朝掃除してる。うちの両親っていうのが、また、私と同じ音大出なんだけど、二人とも教員をしているのね。その頃うちの両親は、どうしたっていうのかな、朝掃除をとことんやらないと、ピアノを弾けなくなるって言い張ってた。子供心に、そんなのおかしいって思ってたの。それなのにね、今私が、その両親の病気を受け継いでいるっていうわけ。そのベッドサイドのテーブルに乱雑にアクセサリーが置かれているでしょう?それがね、私の何に対してだかも分からないけど、そうなの、親っていうわけでもないのよね、何かに対する反抗なのよ。ピアノを弾く人間にとって、ピアノを弾けなくなるっていうのは本当に恐ろしいことなのよ。だから、小さくしか反抗できないっていうわけ」

 俺たちは近所のセブンで買ってきた、発泡酒を開け乾杯し、そして俺はポテトチップスの袋を開けた。

 するとゆきがキッチンに立ち、何かを炒めはじめた。なんだろうと思う。そして運ばれてきたのは「森の燻製」というウインナーらしい。

「ごめんね。うち包丁がないのよ。だからこれくらいしかできないの。私は両親とはちがって、オーケストラに入りたいって思ってる。だから」

「全然OKだ。とてもうまい。炒め加減がとても絶妙だ。俺はラーメン屋だから、そのくらいは分かるんだ」

と言うと、ゆきはほっとするような笑顔を見せて、

「ありがとう」

と言い、俺は切羽詰まったような性欲に襲われた。

 しかしまだウインナーをすべて平らげたわけでもないし、ゆきがさっき冷蔵庫から運んできたベイクドチーズケーキは案外大きい。俺は全部食べてやるさとうそぶいたのが、心の中のつぶやきであったのか、それともゆき相手にそう言ってしまったのか、よく思い出せない。けれど、甘いものが多少苦手だったりもする俺だが、休み休み、ゆきの話を聞きながら食べ勧めていく。

「ねえ、健二君、このチーズケーキは少し手ごわいわよね。残しても全然いいのよ」

 けれどその言葉にうっかり乗るわけにはいかない。そう。天の僥倖。今起きるとは予想すらできないんだ。

 俺はなんなく平らげた。そう言えばお昼だって食べていなかったんだ。そしてケーキであるからには相当甘いのだろうと予想したチーズケーキが、レモンの香りの強い、あまり甘すぎなかったということも要因だ。俺たちはTSUTAYAで借りてきた「モテき」を見た。その間も俺はポテトチップを食べ続けたほどだ。この「モテき」を選んだのはゆきだが、何故それを選んだのかは分からない。なんとなく。そんなものかもしれないが、俺はついつい「モテき」を深読みしようとしてしまうんだ。

 何本目か分からない氷結を飲みながら、俺は少しいつもの、ゆきといるといつも起きてしまう、緊張感が多少ほどけてきた。いつもは質問だったり、うなづいたりだったりしかできなかった俺が、自分の話を始めたんだ。

「そりゃあね、やっぱり除籍よりは中退の方がいいと思ったんだ。履歴書?そんなもののためじゃないさ。親を泣かせたくない、そういう心づかいだった。まあ、いずれにせよ、親は泣いたんだけどさ。今の俺?そうだな、現代の象徴は引きこもりのニートってやつだと思ってる。だけど、引きこもりのニートになってしまったら、女の子と、ゆきと水族館にだって行けないだろう?それは俺の中で受け入れられないものだった。そこで俺は選んだのさ。フリーター。そう、引きこもりのニートほどには先進的ではない、内向的先進性を持った存在だ。俺はそれに甘んじようと思った。なに、俺は24歳。未来はいついかなる時も変化し続けるし、俺の茫漠たる未来も希望に満ち溢れているはずなんだ」

 数時間前俺は確かに

「あーあ」

と思っていた。けれど何か俺のこれからの人生はもしかしたら、光り輝き、その茫漠たる未来っていうやつに、なにか、奇跡、違うな、大いなる冒険、そう、そんな感じだ、そんな未来が待っているそんな気持ちにもなってきた。

 するとゆきが話終えるちょっと前に、

「ねえ、よかったら、シャワー浴びたら?もう終電もないし」

終電がなくなるということ。それが女子の部屋でまたは己の部屋で、その終電がなくなるというタイミングを迎えるということ。これは男のロマンなんだ。

 そのゆきの言葉に促されて、俺は立ち上がった。そして少し足がもつれる。

「大丈夫?飲みすぎたかな」

違う。そうじゃないんだ。男のロマンにうっとりしてしまっていただけなんだ。

ゆきのシャンプーはとてもいい香りだった。俺もこのシャンプーを使おうかなと思ってしまうほどだった。それほどいい香りだった。けれどその「いい香り」の源泉をたどってみると、それはゆきの香りだったからだっていうことに気づいた。ゆきの長い髪はいつもいい香りを漂わせていた。もちろん俺は身体も、いたるところまで、隅々までよく洗った。そして変なことを考えた。デブの女には性格の悪い女が多いと友達が言っていた。そうなのだろうか?では痩せている爪のきれいなゆきは、性格がいいっていうことになるのだろうか?そこまで考えてみて、そうだな、俺たちはお互いのことを分かり合えるほど、長く付き合っちゃいない。俺を選んだのはゆきだったが、その理由を聞くほど肝っ玉は据わっていない俺だ。そんなことを考えていたら、ずいぶん時間が経ってしまい、ゆきに変に思われないだろうかと、ふと思いつき、慌てて風呂から出た。

 

今生があるのならその生いっぱい、メロチを忘れることなかれ

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覚えていてほしい。忘れないでいてほしい。何世代にもわたって覚えていてほしい。忘れないでほしい。それが無理ならこの現在、生あるうちは、勇敢だったとらネコ「メロチュ」を覚えていてほしい。お願いだ。忘れないでおくれ。

 

 メロチュはマンションについた小さな公園に住みついていた猫軍団のボスだった。当然オスで、その公園に住んでいる猫に指示し、命令し、猫たちが住みよい環境を作るそういうボスだった。例えばマンションに住んでいる猫好きの子供が、公園の端にドライフードをまき散らしても、武士は食わねど高楊枝といった風で澄ましてドライフードを極力見ないようにしているさまをわたしは何回も目撃している。

 そうかといってただ単に強気なボスっていうわけでもなかった。他の野良猫たち、ブサやタマ、かあちゃん、ぶち、そんな猫たちがいないと、よいしょっとベンチに乗り、よいしょっとエコーをふかしているわたしの膝に前足をかけ、そしてさらによいしょっとわたしの膝に収まり、ここは天国だろうかといった顔をするのだ。

 そんなコミュニケーションの中、わたしはコミュニケーションのついでだっていう風に、公園にメロチュと二人きりならば、

「メロチュ、今日はあったかいね」

「メロチュ、今日は曇っているね」

「メロチュ、そんなに洗顔が念入りだっていうことは明日雨が降るのかな?」

「メロチュ、今日は寒い。トイレが近いよ」

などとわたしが盛んに、メロチュメロチュと呼ぶものだから、メロチュ自身もその命名に気づいたらしかった。

 そうしているうちに、メロチュは公園からわたしたちの部屋に戻るその後をついてくるようになって、エレベーターにも乗り込み、わたしたちの部屋までついてきてしまった。少し戸惑ったが、それはとても愉快な出来事で、私は床暖のリビングのソファに座り、メロチュはやはり、よいしょっとわたしの膝に収まった。ダーリンの帰りが心から待ち遠しかったし、ダーリンの反応も楽しみだった。

 七時二六分、チャイムが押された。わたしはあえて玄関まで出迎えなかった。ダーリンは鍵を開けているようだ。

「ハニー、帰ったよ」

と廊下を歩くダーリンに、胸が高まる。

「おや?」

ダーリンはリビングのドアを開けて第一声、そう漏らした。

「お客さんかな?」

「そうよ、お客さんよ。メロチュっていうの。メロチュがダーリンによろしくだって」

「メロチュ、俺からもよろしくっていってもいいかい?」

と言って、わたしの座るソファの隣に座ると、メロチュはためらうそぶりさえ見せず、ダーリンの膝によいしょっと座った。

 それからというもの、わたしとダーリンは休日になると、猫の生態などが詳しく書かれている本を買いに行き、それをダーリンが3日で読みおわり、私も3日で読み終えた。

 そう、その日だけではかなったからだ。メロチュが訪れるのは。メロチュは非常階段をいつの間にか覚え、そしてわたしたちの部屋が36階であること、その部屋の玄関、それらもいつの間にか覚ええたらしく、どうやってかは知らないが、ベランダに現れ、それはそれは大きな声で

「にゃおーん、にゃおーん」

と絶叫するようになったのだ。確かにわたしたちのマンションはペット禁止ではなかったが、そのあまりにも大きく大げさな絶叫は、ご近所の手前少々恥ずかしいものだった。

 メロチュは来ない日もあるがだいたい私たちの部屋に夕方来て翌日の昼前には出ていく。猫用のマグロの缶詰と牛乳、そして水は食べ、飲んでいくが、おトイレはしなかった。わたしたちはメロチュのおトイレを用意することすら頭になかった。そう、わたしたちはどうであれ、メロチュを野良猫だと思っていたのだし、メロチュだって36階に自分の住まいがあるっていう風には認識していなかったのだと思う。そしてダーリンはスーパーに行くときと整体に行くときのみ使うママチャリを「メロちゃん号」と名付け、快調に街を駆け抜けているらしかった。

 

 そして夏になるころだと思う。

 メロはわたしたちの部屋を訪れなくなった。わたしはルーティンになっていた公園に行くっていうことを、特別メロチュを意識するっていうわけでもなく、止めなかったしエコーを吸った。また少し猫が増えたようだ。それならば名前をつけなくては、と猫を一匹一匹観察したが、ドライフードが撒かれていたって、メロは現れなかった。でも、今思うとなのだが、その中にメロももしかしたらいたのかもしれなかった。変わり果てた姿で。いや、そんなこともないだろう。メロはあくまでも強く、弱さを誰にも見せなかったのだから。

 ある夏の終わり、メロチュが久しぶりにやってきた。そこに、ベランダにメロチュはいたが、いつものように

「にゃおーん、にゃおーん」と鳴かなかったので気づくのが遅れた。その姿を見たわたしたちは絶望した。あのソファやベッドでゴロゴロと過ごしたあのメロにはとても見えない。小さくなってしまった。あまりにも小さくなってしまった。メロはソファにもベッドにも上りたがらず、ソファの下に潜り込んでいく。水や牛乳を鼻先に置いてみても、それすら飲めないようで、ダーリンがテレビを消した。そして静寂の中、「ダメだな」とつぶやき、わたしも「そうね」、と小さく答えた。

 ある土曜日、わたしたちは車を出し、紅葉を見に行った。那須だ。紅葉の中を車で通り抜ける。渋滞がひどい。わたしは助手席で眠ってしまった。そして少ししか寝ていないつもりで起きると景色が激変していて、それはもう国道4号で、わたしはあまり紅葉が見れなかったとか、なにかおいしいものを食べるんじゃなかったのかとか、プンプン怒った。

「だって、あまりにも幸せそうに寝ていたよ。ハニー」

ダーリンはそう言うが、起してくれて全然かまわなかったと当たり散らした。そして信号で車が止まる。その静かな車の中で、ダーリンは肩を揉みながら、

「あーあ、メロはもう死んだんだろうな」

と言った。まるでこういうチャンスがなければ言えなかったっていう風にだった。

 早めに家に着くと、ダーリンは日曜はやっていないからと、メロちゃん号に乗って、整体へ向かった。わたしはふと公園の木々は色づいているのかな? と思いつき、ポケットに鍵とエコーとライターを入れて、Tシャツの上に黒いパーカーっていう格好で公園へ向かった。

 誰にも気づかれなかったらしい。それもそうだ。わたしが気づいたってこと、それも奇跡にも思える。公園の隅の背の低い生垣の中でメロチュは死んでいた。どうして分かったのかというと、公園の街灯の下に、生垣からほんの少しだけボーダーのメロのしっぽがのぞいていたからだった。口が少し開いている。目がほんの少し開いている。わたしは一回部屋に戻って、ネットで検索し、方々へ電話をかけた。その先の一つのところが、猫の死体を扱っている場所、その電話番号を教えてくれた。わたしは携帯でその電話番号にかけ、一瞬で切り、公園に戻る。

「もしもし、猫の死体を発見して」

「そうですかあ。遅かったな奥さん。そういう業者は六時で引き上げるんですよ」

「どうしても?」

「どうしてもって聞かれても俺も困るけど」

「じゃあ、明日でもいい。わたしのマンションに死んだネコは保管します」

「そんなこと言われたらさあ」

「だってだって、猫の顔には蟻がたくさんたかっているのよ? あなたって、そういうことどう思うの?」

「わかりましたよ奥さん。今谷古宇橋にいる業者がいるから連絡を取ってみます。連絡先を教えてください」

わたしはメロチュの顔にたかる蟻を振りはらいながら、素早くわたしの携帯の番号を教え、「絶対にお願いしますね」

と言うやいなや電話を切った。そして少し思った。まだ死んでそうは経っていないのだろう。それならば、メロチュを部屋に入れ一晩を共に過ごしてもよかったかもしれない。でもそれはメロが望むことなのだろうか?

 業者から電話があった。わたしは字面にはいつくばったまま、片手でメロの顔の蟻を払っている。

「もしもし、今からうかがいます。あのマンションの小さな公園ですよね。わかりました」

わたしは業者が着くまで公園に腹ばいになって、メロチュの顔の蟻をはらっていた。払い続けていた。業者が来たと同時に、このマンションの一階に住む、庭キチガイで有名なおばあさんがやってきた。手に懐中電灯を持ち、長袖の柄のついた割烹着を着て、白い手袋をしている。

「あらあ、この猫死んだのかい。わたしのうちの庭にをよく通っていったけどねえ。まあ、別に餌とか牛乳とかやったわけでもないけれど」

「そうですか」

わたしは思ったよりスムーズに声が出ることにその時気が付いた。

「何歳だったのかねえ。案外年寄りだったのかな」

「いいえ、三歳か四歳です」

そうしてメロチュの亡骸は白い布でくるまれ、段ボールの中に入れられて、その業者はしばらくの間、なにかお経を唱えていた。わたしは黙っていたが、そのおばあさんは何かを話し続けていた。それは内容はくみ取れなくても返事を要求するような話し方だったと思う。

わたしはさみしくて、けれどさっきまで一人で腹這いでメロチュの顔の蟻を払い続けていたのに、何故その時はそのさみしさ感じなかったかなとか、その時は苦しいだけだったなとか、そんなことを早いスピードで考えて、さっきまでは邪魔な人なんていなくて、しゃべらなきゃいけないなんてこともなくって、さっきまでの方がよかったとか、さっきまでは二人きりでいて、世界には二人しかいないような気さえして、宇宙全体にも今二人きりだとそんな夢を見ていて幸福だった。そんな風に考えて。

 

わたしは別に悲しそうな顔もせず、部屋へ戻った。戻るときいつもよりエレベーターの速度が遅いんじゃないかと訝った。そしてリビングのソファに座ると突然「わっ」と泣き出してしまった。今スコールより激しいのだ。その私の涙は。

 

 メロチュ。君は簡単に信じることの天才だった。信じるということ。疑わないということ。これはとても強い、そして強いのならば、一番の弱者に一番たくさんの餌をと考えることができる、そんな優しい君だった。その強さとその強さの意味、わたしは君から教わったんだ。勇敢な勇者でなければ到底なしえぬことだ。簡単に36階へ来て、ソファに座るダーリンの膝に簡単に座る。そう、簡単にわたしのこともダーリンのことも信じて疑うことがなかった。えさをねだりたかったら、メロチュ用のお皿をかんかんと踏んで鳴らす。そういう君だった。今天国で身体も軽く、携快に36階へと非常階段を上っている。疾駆している。

 

忘れたもうな。この勇敢だったメロチュを。ドライフードが撒かれていてもお腹が鳴るまま見ないふり。そう武士は食わねど高楊枝。それをメロチュは貫いた。プライドを持った猫軍団のボスだった。覚えていてほしい、この勇敢な勇者メロチュを。ゆめゆめ忘れることなかれ。今生があるのならその生いっぱい、メロチを忘れることなかれ。覚えていてほし

い。メロチュを。