新連載3:猫とベイビー
「ずいぶん長かったわね」
「うん、バスタブのある風呂って久しぶりだったんだよ。俺の部屋にはシャワーしかないんだ。けれど、いずれはバスタブのあるマンションに引っ越そうと思ってる。ちなみにそれは近々なんだ」
と俺も自分で言いながら、妙だな、と思えることを言った。
「私もシャワーを浴びるから、少し照明を暗くしていい?」
とゆきが言う。
「なんで?」
「まだすっぴんを見られるほど、そこまで親しいわけじゃないっていう風に、私には思えるの。健二君がどう考えるのかは分からなけど」
「OK。ゆきがそうしたいなら、それでいい。いつか太陽の下ですっぴんを見せてくれる日が来るって俺には確信があるから」
うそだ。そんな確信などない。ゆきに嫌われたくない。そう切実に願っているだけだ。俺は茫漠たる未来に光があると一瞬思ったが、ゆきがシャワーを浴び、一人きりで暗い部屋にいると、いつかゆきが俺を捨てるのは間違いがないことのように思える。俺はトランクスとTシャツという格好で、コーヒーテーブルに置かれた発泡酒や氷結の間を一つずつ振っていって、やっと入っている氷結を見つけ、一気に飲み干した。そのゆきに振られた後の俺は光なんて見えないままラーメン屋で働いているだけの、そうモテたりなんてしない、そんな24歳に戻るのだろう。そしてしつこいようだが、その時に絶対に希望なんて見えないんだ。
ゆきが風呂に入っている間は未来永劫っていう風に思えた。もうゆきはゆきだから風呂で溶けてしまったんだ。そんなことも思ってみたりした。酔っていたんだろう。するとゆきが髪を濡らしながら、風呂から出てくると、一日中主人の帰りを待っていた子犬のように、俺はぶんぶんしっぽを振りたい気分で、
「早かったな」
「そう?私いつもそんな風よ」
ゆきはタンクトップにショートパンツといった格好だということは、この暗い照明でもなんとなく分かる。
俺は高校1年の時、童貞を失ったわけだが、その時、常に草食に思われていた俺が、ベッドでは激しく肉食だったと、たいして好きだったわけじゃない、不細工でおっぱいの大きい女に、学校中に触れ回られた。ベッドでの行いを触れ回られるっていうのは、ゆかいじゃないが、草食に見える俺が、実は肉食だったとい噂は俺をモテる男に仕立て上げた。だから、もしかしたら、その不細工でおっぱいの大きい女には感謝すべきだったのかもしれないが、俺は俺に次に告白をしてきた、少しだけかわいい子にすぐに乗り換えた。そうだ、俺はベッドでは暴れてしまう。けれど今宵はすっぴんを見せられないと、そんな風に言うゆきを肉食でもって襲うつもりは毛頭なかった。ただシングルのベッドで添い寝をする。そんなつもりでいた。ドライヤーを使う音がする。結構長い時間に感じる。俺はダメになったなと思う。惚れた女が、洗面所から中々姿を現さないだけで、不安になっちまう。そして何か話しかけたくなっちまう。
俺はふと、そうだ、しょんべんをしたいと思って、あれからどれくらいの時間が経つのだろう、そう思いだしたんだ。そして少し酔っていたせいもあるのか、ゆきの部屋で、俺の部屋で用を足す方法とまったく同じ行動をとってしまったんだ。つまりトイレのドアを閉めないまま、じゃーと用を足す、そういう行為だ。かなり長い時間我慢していたようで、長時間のじゃーは続いた。トイレの電機はつけてある。するとゆきがトイレの照明に照らされながら、俺を見て笑っている。俺は落胆を禁じえない。ご両親は掃除マニアのピアノの先生。トイレのドアを開けっぱなしで用は足さないだろう。もしかしたら今までのゆきの彼氏だって、名家の出かもしれない。俺は道路工事の監督と、珍来でのパートをしていた親の息子だ。うちの父親だってトイレのドアは小便に限ってはトイレのドアは開けっぱなしだった。
「もう休みましょう?」
ゆきが言った。俺たちは重なるようにシングルベッドで横になり、そしてゆきは黙っている。俺も寝ようとした。さっきまで俺は酔っていたはずだ。眠れるはずなんだ。そしてゆきは、それはいつもどのくらい飲むのか知らないが、目が少し眠たそうな目になっていたのを俺は照明を暗くする前に見ている。そうだ。ゆきもすぐに眠るだろう。眠ることに反抗しないことに決めてはみたが、ゆきに何かを話しかけたくなる。でもそうしちゃいけないんだとこらえる。
するとゆきが突然上半身を起き上がらせる。
「どうした?」
「どうもしないけど、」
「どうもしない?」
次の瞬間、ゆきはおれの首に両腕を回し抱きしめた。
「健二君って、首が案外太いんだよね。はじめっから気づいてた」
俺は正直感動した。ゆきも積極的とは言えるのかもしれない。自宅へ招き、終電に急かさず、俺にシャワーを勧める。けど違うんだ。俺が高校時代の肉食期、積極的な女はいくらでもいたし、急かす女もいた。でもゆきは違うんだ。優しい、そんな物腰。柔らかくて華奢な腕、甘える風でもなく急かす風でもなく、そういうふうにしてみたかったと身体と少しの言葉だけで、表現した。
ゆきを抱きかかえながら、もう一回横にする。
「あのな、ゆき、村上春樹の、確かノルウェイの森だったかな、その作品の中にね、すごく印象深く覚えていてるシーンがあって、それっていうのは蛍を逃がすシーンなんだ。俺も少し真似してみたんだ。ワードを使うとか、そういうんじゃない。ただ、ノートにシャーペンで書いてみたんだ。それは蛍ではなく、カナブンでね。カナブンが屋上で少しためらうようにとどまり、小さく羽を震わせはじめると、カナブンは飛んでいくんだ。突然にね。なにを言いたいって特にないんだ。それは小説ではないし、始まりと終わりがある文章でもない。でもね、でもうまく書けた。そう思ったんだ」
「うん」
そして一回目は失敗したんだ。暴発じゃない。その反対だ。俺は突然腹が痛くなったと言ってトイレに鍵をかけこもった。そして想起するわけだ。今までの性的経験。ある女は体が柔らかくて、アクロバティックな体位さえできた。ドスケベな女だっていた。そして思い返す。今まで見たAVで一番興奮したのって、なんだっけ?