新連載8話:猫とベイビー
ゆきはおれの話を聞きながら、マルボロのゴールドに火をつけ、ふーっと吐いた。そして俺の話が終わると、それだけ?とでもいうような表情をして、こう言うんだ。
「私の元にはそんな話はいくらでも転がってるの。大抵の男性が似たようなことを家の玄関で宣言するわ。私はスリッパも出さず、「入ってよ」なんて言うこともない。それなのに、そういった人たちは、玄関で大声でしゃべるのよ。いずれは売れまくる大作家であるとか、いずれは有名な外科医であるとか、アバンギャルドなアーティスト、そんなことも言う人がいる。果ては現在のエジプト情勢を俺が何とかおさめ、ノーベル平和賞をとると言う人もいたわ。そういうの、もう飽きてるの。だから、もうそういうのはいいわ」
「もうそういうのはいいわ」
と言われてしまっても俺は考えていた。総理大臣とノーベル平和賞だったら、どっちがすごいのだろうか?そして心弱く、俺の方に分がないように思える。ノーベル平和賞。すごい。
俺はとうとう床に両手をついてしまった。なにを言っていいのかもわからない。それなのに今俺はソファに座るゆきに両手をつくっていう格好で、何かを言わなきゃならない。
「俺はノーベル平和賞はとれない。すまない」
「いいのよ」
ゆきはそう言った。
100メートルくらい
走りましょうよ。
いまのあなたって
捨てられて戻ってきちゃってごめんなさいっていう
犬みたいだわ
もういいからたまには走りましょうよ
100メートルくらい
わたしヒール履いてても
いまのあなたに追いつけるって気がする
そうなんかいもへこたれられても困っちゃうわ
「ところで、いつ私にラーメンを作ってくれるの?」
「え?」
俺がゆきの言葉に対する感想は「え?」というもので「え?」でしかなかった。俺はゆきが腹を空かせているというのに、あらゆる、俺なりの努力はしてみたものの、結果、ラーメンを作ることに成功しなかったため、俺はゆきに俺が差し出したへその緒のようなシロツメクサのように、駅のゴミ箱かコンビニのゴミ箱かなんかに、名残惜しさもなく、捨てられると思っていたんだ。そしてこんな気分になった。過去なんてまるでないみたいだ。そして未来ってやつは厄介だ。よく見えやしない。過去もなく未来もよく見えず、あるのはただ、今だ。今ならはっきり見えている。ゆきがいる。
俺の身体中の細胞が活動を始め、その細胞一つ一つが、俺は今生きている、と主張を始めている。おい、俺の細胞とやら、やっと目が覚めたらしいな。そして何もかも、俺の身体を構成する何もかもが、やっと目覚め、立ち、動き出し、生きているんだと喜びに叫んでいる。
「めんてぼを盗むのよ」
「めんてぼを盗む?」
「そう、それしかないわ」
盗む。おれはそういうことは経験したことがない。そうだな、確かに中学の時に本屋で、いてもたってもいられず、エロ本を万引きした。それだけだ。けれど今、ゆきはめんてぼを盗むのだ、と言った。万引きだってそりゃ「盗む」ということと、何ら変わりがないのだろうが、それでも「盗む」という言葉で想起させるのは、何か犯罪の香りがする。それは確かに犯罪ではあるのだが。けれど「万引き」と「盗む」、つまり「窃盗」は何か大きく違うように感じる。ああ、そうかそりゃ「万引き」だって「窃盗」だ。
そして感じる。「盗む」。これはゆきと俺にとって遊びじゃないんだ。食べるということ。これができなければ人ってやつは死んでしまう。食べるという行為は、そういう人間にとって最上級のレベルで語られるべき、大変重要で、大切な問題だ。そうだ。つまり遊びじゃない。俺は今夜、真剣にめんてぼを盗む。
そう決意すると、俺は体の中に何か力が充満してくるのを感じた。地球のエネルギーを俺は今、足元から吸い取っている。そのエネルギーは、測られるのを拒む。なぜなら、測ることができない、そういう種類のものだからだ。俺は今、夕暮れではないが、オレンジ色に輝いているのを感じている。こういう時に沸くエネルギーは、ただ、まぶしくオレンジ色に輝くしかないものなんだ。俺は24。今それを知った。
「さあ、とりあえずフレンチトーストも食べたし、もう一回寝ましょう」
見るとゆきは濃紺のTシャツと、エルモの描かれたショートパンツを履いている。俺がエネルギー充填中にどうやら着替えたらしい。俺はもぞもぞとGパンを脱ぎ、ゆきの隣に横になった。眠ろうと思う。そうだ、俺は圧倒的に寝不足だ。寝よう。しかし、俺の中の、俺の身体の中の何もかもが、俺を眠らせようとしない。まるで今寝たら死ぬこともありうるっていう風に、俺の身体の何もかもがそう俺を騙そうとする。なに、寝たら死ぬわけじゃない。俺は思う。このまま眠れずに、そのまま明日も明後日も迎えてしまったら、俺は多分奇声を上げながら、新宿の交差点で服を脱ぎはじめ、そうやって死んでいくだろう。
どう考えたって寝ないということは、そういうことを意味している。
「眠れないんでしょう?」
「うん。どうしてなのかは分からないんだけど」
「私も」
「うん」
「じゃあ、寝物語ね、いい?きちんと聞いてよ?」
「うん」
「あのね、たいていね、私がお断りした人に多いんだけど」
「うん」
「こんな風に言う人がいる。『君はどうせ挫折を知らないんだろう?』って」
「うん。ゆきはそういう風に見える」
「これから話す話が、果たして私の挫折なのかそうでないのかは分からない。そして挫折ていうことが、一般的にどういうものかも私は知らないの。でも聞いてくれる?」
「うん」
「私高校一年生のとき、とても親しい友人ができたのね。私は昔から友達が大勢いるっていうタイプでもなかった。でもその友達には何でも話せるような、背を向けても分かってもらえるような、ずーっと話さないでいたって、この前話した話の続きだけどっていう風に、話し始められるようなそんな友達だった。私たちはね、何かとても自然な吸引力でお互いにくっついていくように、そんな風に仲のいい友達同士になれた。でもね、いつからかは分からない。はじめっから内包されていたのかもしれない。太い毛糸で編まれたニットが、裾からほどけていくように、ゆっくりとそりが合わなくなっていった。そうなの。どう表現していいか分からない。そりが合わない。そうとしか言えない感じだった。私は学校がつまらなくなった。勉強はもともと嫌いじゃなくって、勉強はしたかった。でもね、勉強もつまらなくなった。そして私は毎朝、学校へ行く前、おう吐するようになった。そして学校に行かなくなった。それでも私はおう吐するの。それは学校に行かなくなる前より、回数は多くなっていくの。うちの両親は、私が学校に行かなくなったことではなくて、私のおう吐を心配した。その頃私って罪だなって思った。近しい人に心配をかける。心配してくれてありがとうっていう人もたまにいるけれど、私は心配かけてごめんね。そう思った。そして高2になり、おう吐はぴたりと止んだ。そしてまた普通に学校に通うようになったの」