今考え中だ

こじらせ中年って多いですよね。恋愛市場引退したいような、それでいて、私だってまだまだ的な。「まだまだ、ときめいていたいっ」っていう完璧リア充も多いけど、一方で、わたしなんて、いやー、もう、でも?みたいな人も多いと思うんです。つまらない日常からどうやって目をそらしてこう?というヒントが提示できたらという作品を書いていきたいと思っています。また、考えすぎて頭がバカとか変態になっていしまった方へ向けてのメッセージも込めてます。若い人にも読んでいいただきたい!死ぬからさぁ。

エッセイ:ガン見vs引いた目‐ズンドコ節の考察~って言ったらウソだけどw

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tamami2922.hatenablog.com

 

ガン見vs引いた目‐人がズンドコの時とるべき目線

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納豆食べるとツイートしといて、目玉焼きを食べた、軽く裏切りがちなたまみです。

人ってが幸か不幸化の渦中のどちらかにいるかを決めるのは、己の主観によるものである………、ま、多少そんなところもあるでしょう。しかしね、いちゃらぶな恋愛中と、失恋した………との幸不幸の違い、昨日の夜は香港で軽ーくご飯してきた―――という方と、ど、どしよ、給料日までカップ麺で我慢か。。。という方の違い、これは明らかで、絶対的に、どちらのケースにせよ、価値観の違いはあるにせよ、前者のほうが幸福であり、後者のほうが、不幸であるとはいえるわけです。

この前、女子の友人がうちに遊びに来たわけですよ。私は多くの友人は持ちえないけど、その友人とは忌憚なく、なんでも話せる仲。それでねえ、その友人が言うには

「ねえ、きよみさん、わたしさあ、実を言うと先月彼氏と本と言うと揉めててさ、いつもは衝撃を受けても、心中に沈んでいく、何となく紛れていく問題が、それが起きた日はやけに、苦しくて、悩んじゃってね。そいういことない?」

「あるあるあるある。あるーーー。」

っていう会話があったわけですよ。それでねえ、私が考えたのは、友人にそのトラブルが起きた時、彼氏と揉めていたという点であるのは明らかっすよね?

彼氏と揉める………これは、一般に女子にとって生死を分つw大問題でもあるわけでわけです。そんなとき起きた、どうやら仕事上らしい何らかの凹むトラブルがあったというわけですね。

人って、疲れる、サーカディアンリズムに逆らってる、ストレスを受けているっていう時、セロトニンが出にくくなって、メラトニンが作れず、不眠になったり、幸福感を感じにくくなる。

そういった、割と「私はいま不幸である」という気分の時、人って、対象物に近づきすぎる傾向があると思うんです。対象物、トラブルをガン見。ガン見しているんですから、視界はそれでいっぱいなはずで、脳内もそれでいっぱいになる。すると、いつもはスルー出来たり、紛れていく事々、ものものが、そういう風にできなくなってしまう。それが、不幸であるということの正体というか、状態、本質であると思うのです。

そこで、我々は、「引いた目戦」を常に持つべきなのです。引いた目戦を持っていさえすれば、何らかのトラブル、問題が、日常のあらゆる事々、ものものの、「それらのひとつ」になっていくはず。すると、ガン見していたときとは違い、トラブルや問題で脳内がいっぱいになって、苦しんだり悩んだりすることが、リスクとして減っていく。それは、悩むとか苦しむとかはあるのでしょうが、one of themで済むわけです。そして、それが、人が健やかであると言いますか、幸福であるというような、正体であり、状態であり、そして、本質であると思うのです。

ですので、常に我々は、どこかに「引いた目線」を設定しておいたほうが良い。それは間違いないです。では、なぜ、人はたまに不幸に陥ることがあるのかという問題が生まれますよね。引いた目線を設定できているはずの人であっても。

Anser.

答えは簡単なんです。それは我々は、多かれ少なかれ、どこかに愚かというか、バカな部分を持っているからだと思うのです。それはねー、近しい人の死、大きな失恋、そんなときに、one of themとか言ってられなくないですか?

愚かな私たち、いつもは楽しくやっても、ズンドコはたまに訪れるわけですよね。そうは言っても!!引いた目線、忘れず設定してください。

人間は何故生きていられるのだろう

私は常に、テンションがノーマルな時も、ハイな時も、下がっているときもこの実存的?ともいえるw考えを考えざるを得ません。人間以外の動物って、己が死ぬ時があるなんて知らないで生きているらしいですよね。しかし人間は知っちゃう。いつの間にやら。自分がいつか死ぬことを。それを知っていて生きているということや、人間という矛盾に満ちた、絶望的存在について考えた時、なぜ生きていられるのかなあーーー??と考えちゃったりもするわけです。

しかし、人間も動物の一種なのですから、自分で自分を殺すとなると、それは変態であって、病気とも言えちゃうわけですよね。

多くの人が、何らかのテーマを抱えているとは思うのですが、たまにはそんな実存的問題を考えてみるのも悪くもないそうです。医者が言ってました。

ただね、そこに落ちると、ぐたくだぐだぐだ、めんどくさい人になってしまったり、めんどくささを発露したのち、私ってウザ、私ってウザって考える私ってウザwというループにはまっていく。

そして、そんな実存的な問題を「考えてみる」ではなくって、考えちゃう、頭がいっぱいになっちゃう、「落ちてぐだぐだになり、めんどくさくなり、ウザに行きつく」とぃう状態を、私は不幸である状態と呼びたいw。私にもよくあることなんですが(というのも、結構バカだからねーー私w)、それはテンションに左右されているわけですよね。

先ほども述べた通り、テンションの上下がその、何らかの実存的テーマに付随した「落ちてぐだぐだになり、めんどくさくなり、ウザに行きつく」に大きくかかわってくるはずで、そのテンションを決定するのも当たり前で恐縮ですが、幸不幸であったりする。

引いた目線。どこか宙に浮いた目線、見渡す目線。裏側も同時に見る目線、これらの設定はとっても大事だという結論が出ました。

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