また新連載11:卒女生徒
そしてこの前、中年の女性に罵声を浴びせられた。
「なんだい、この、愛想のない女は、受付のくせして笑いもしない。いやな女だ。わたしはスピッツを三匹も飼ってるんだよ。貧乏人じゃない。貧乏人扱いするんじゃないよ」
と。私はそれに対し、
「ご不快にさせてしまって、大変申し訳ございません」
と言った。そしてその後も通院しているその女性とわたしは、世間話や、エンタメ情報などを共有するほど親しくなった。それもうれしいトピックかもしれない。
でも誰にも秘密にしていることがあった。最近、病院が開いてしまうまでではないが、たまに数分の遅刻をするようになった。目当ての電車に乗れない時だ。ナイキを履いているから、少しは急ぎ足になれる。けれどその目当ての電車に乗り遅れてしまう。
家に帰るとまずポストから、マンションの資料をどっさり持って、階段を上っていく。もうわたしは越谷限定で新築マンションを探していなかった、はじめ都内、それも埼玉に近いところの資料請求もしたが、次第に広くしていき、都内全域、神奈川にもそれを広げた。だから日々どっさりのマンションの資料が送られてくる。わたしはもどかしくチェスターコートを脱ぎ、ムートンの敷物の上でピースを吸いながら、マンションの資料に目を通す。そして目を通しながら、平和、ピースに火をつける。今日帰り道、クリーニング屋に寄って、ムートンのコートを引き取ってきた。ムートンコート。これはわたしに様々なウソをつかせて終わったなって思う。今は彼氏もいない今年三一歳になる医療事務だ。そこにはウソの片りんもなかった。ウソをつかないっていうことがとても力強く、ウソをつくことが、なんて心弱い存在にしてしまうんだろうっていうことにも気がついた。何回もみじめになったっていう気がしてる。それはウソをついたせいじゃない。ウソはむしろそういうものから守っていてくれたって思う。世界中の人が心弱く、ウソをつき、みんなでドキドキしながら隣の人の手を握り、宙に浮いたら、そこには何も描かれていない。それに呆けた世界中の、年寄りも中学生だって、みな笑い出すだろう。
「あれ? なんにもないや」
と。そして大爆笑が起きるんだ。世界中の人大爆笑は、空を震わせ、それに誘われて、流れ星が斜めに落ちていくだろう。「恥ずかしい」ともう思いたくない。誰もそう思わないでほしい。恥ずかしい人なんて、そう滅多にいないのだ。
わたしの秘め事。わたしはプリンターで「デスク」とか「ドレッサー」とか「イス」「ソファ」「テーブル」「サイドテーブル」「ダイニングテーブル」………と様々なそれに似せた絵を描き、シールを作ったのだ。それを送られてきた資料の中に入っている、間取り図に貼っていく。それらのシールを貼りながら、その思いを、性に情熱を傾けているような気がしていた。それがわたしの秘密だった。本物の性より、もっと性だった。見られたくない心を持った。それがよく似ているのは欲情に倒され、素直に仰向けになりストッキングを破くっていう行為だった。
休日などに携帯が鳴ることもある。それははじめ、ヒロコのレクチャー通りに、
「検討しましたが、見送ります」
と言っていたが、
「比較検討したんですけど、今回は見送りっていうことで」
「比較検討させていただいたんですけど、他の物件に決めてしまって」
などのバリエーションを身に着けた。
そうやって朝方、空が白み始めるまで、間取り図へシールを貼るという行為に耽溺していた。それで遅刻が増えた。それでもトイレ掃除は毎日したし、風呂だって入ったし、髪の毛も洗った。もうイヴの夜、歯の取れた詰めものは、すぐに歯医者に行って治した。
ただ夕食を食べなくなった。マンションの間取り図にシールを貼っていると、何もかも忘れていくような気がした。なるほど、と独り言つ。性へおぼれたらその間は何も思わないし、何も忘れるのだろう。それが快なのだろう。それが性を貪る姿なのだろう。
わたしは春爛漫の土曜日に午後、越谷レイクタウンに行った。仕事帰りだ。駅の階段を下り、改札を抜け、レイクタウンに入ろうとすると、風船を持った若い男が、わたしにティシュを差し出す。思わず受け取る。そのティッシュにはマンションの精密画が描かれていた。その若い男性の片方に持つ、立て看板を見るとモデルルーム見学、と書かれている。
わたしは瞬時に嗅ぎ分けた。レイクタウン? それよりこっちの方が面白そうだ。若い男性に
「モデルルーム、見てみたいんだけど、どう行けばいいの?」
と尋ねた。
「この道をまっすぐ行って、一つ目の路地を右に曲がって下さい」
モデルルーム見学は初めてで、どういうことをするのかって言ったら、マンションの中を案内してくれるっていうことだと思っていた。その想像は間違っていた。しきりのあるブースがいくつも並び、今日は春うららかな土曜日の午後のせいか、子供を連れた家族なんていうのも結構いる。女性一人っていうのはわたしくらいかもしれない。
これに記入をお願いします。と言われて差し出されたのは、個人情報を大いに漏らすっていう内容で、わたしは現住所の欄に実家の住所を書こうとしたが、それも今となってはうろ覚えになっていて、やっぱり、と本当の住所を書いた。それを書いている最中に背が高く、白いブラウスとネイビーのタイトスカートを身につけた女性が現れ、メニューのようなものを差し出し、「どちらがお好みでしょうか」と言う。そのメニューをよく見ていたら、コーヒーやお茶、レモンティーやアップルティー、その中にぽつんと「デカビタ」が載っていて、ふざけているみたいな存在に見えるデカビタを頼んだ。そして記入を進める。今現在のお住まいは?というところにチェックを入れるようになっている。わたしは1Lにチェックした。しばらくして戻って来た担当者は、
「お客様の現在のお住まいはこちらになりますね」
そう言ってわたしに見せるのはわたしが住む、モルタルづくりの二階建ての、ベランダに洗濯機が置いてある、そんな住まいの外観と、1Kの何も家具が置かれていない部屋を写したものだった。
「チェックを入れられているのは1Lになっていますけど、違いますね。1Kの間違いですね」
この野郎。殺してやる。わたしがそう思うことは少ない。でもその営業の男に対する「殺してやる」は本物だった。灯油をかけて火をチャッカマンでつけてもいいって思った。フィンガーボールの水を飲んだ王女の話を聞いたことがないのか? 読んだことがないのか?
わたしはテーブルから少し椅子を離し、左足を右に大きく足を組んだ。そのとき見えたのはその営業マンの腕にシャネルの時計が巻かれていた。
「お仕事は?」
「言いたくありません」
「職種だけでも」
「言いたくありません」
「僕はね、職業柄なんだろうな、その人が本当にお金をもっている人が、そうでもないか、っていうのをね、見分けられるようになったんですよ」
「それがどうかしましたか?」
「年収は?」
「申し上げたくありません。わたしは近々、マンションを買おうと思っています。結婚はしていません。独身です。あなたに値踏みされにきたわけじゃない。ただマンションを見たかったんです」
「じゃあ、もうぶっちゃけ言っちゃいましょうよ。ご職業は?」
「聖路加病院の正看でもない。聖路加病院の医療事務でもない。わたしはね、作家なんです」