また新連載7:卒女生徒
そうそんなことを考えながらムートンコートを着たわたしを誰もがステキ女子だと思っているだろうと思いながら通勤した。ステキ女子? ばかばかしい。わたしはただの冬ごもりをする前の、やけに鮭ばっかり食べているクマにしか過ぎないのだ。そう、昨日わたしだって鮭を食べた。ムートンコートっていうのは四五キロ未満の女子しか着るべきではないっていうことがやっとわかった。
「うん。クマさんみたいだけどね、これってとってもあったかいの。わたし寒がりだから」やっとそう言った。そして看護師さんたちとも共同のロッカールームでムートンのコートをハンガーにかけ、ロッカーにつるし、白いブラウスと黒いスカートを身につけた。別にカットソーじゃなくてよかった。バッグにグレーのカーディガンなんて入れてこなくてもよかった。カーディガンなら、薄い黒のカーディガンが支給されているのだから。わたしはいろんなところで間違った。行くべきじゃない方へ道を曲がった。海は深かった。わたしは竜宮城へ行くべきだった。今からでも遅くないのかもしれない。竜宮城には傷などないのだ。
お昼休憩、看護師さんたちはおもいおもいのお財布を握ってコンビニへ向かっている。わたしも今日はお弁当を持ってきていないことを思い出して、慌ててその後へ続く。わたしはカルビ弁当を買った。そして休憩室で看護師さんたちと一緒にお昼を食べる。
「いつもちゃんとしてるよね。サクラさんって」
「うん。一人暮らしなのに、お弁当とか持ってきてすごいなっていつも思う」
「いいお嫁さんになれるよね」
わたしよりはるかに年が下の看護師さんが言う。
「みなさん、イヴはどう過ごすの? やっぱり彼氏とかいるんでしょ?」
「内緒―――」
と口々に言う。そして
「サクラさんは?」
と聞かれ、
「わたしはエンジニアブーツを履いているわたしの家の最寄り駅にある大学に通っている大学院生と過ごすの」
最近はどうもウソを迫られることばかりだなと思う。
「やだ、年下の大学院生? サクラさんすごーい。でもそういうサラダだけでもって持ててくるような、そんな家庭的な部分って男性にとっては絶対好印象かも」
「ナンパから始まったの。わたしその大学院生にナンパされたの」
看護師さんたちが出ていった後の休憩室で昼寝をしようとして、ふと思いつき、ヒロコにラインをした。
「マンションの資料請求っていうけど、そういうの電話かかってきたり、家に不動産屋が来たりしないの?」
そしてしばらくは連絡もないだろうと、昼寝に戻った。久しぶりに食べたカルビ弁当はおいしかったなって思いながら。
病院が閉まるのは午後六時。その後雑務をこなし、帰りは七時近くなる。わたしは着てきたムートンのコートを着て、院長先生に「お疲れ様です」と声をかけ、病院を出ようとした。するとちょうど院長の奥さんが外から帰ってきて、
「あなた、外はすごく寒いわよ。そのコート、正解だわ」
と言った。朝、獣とたとえた奥さんだ。空に国境なんて書いてない。どこに住もうと誰でも自由でありたい。故郷へ帰りたい人がいれば帰るといい。誰にもひねこびた、悪い心などなくなってしまえばいい。誰しも悪気なんて持たない方がいい。隣の人の手を思い切って握ってみたい。冷たいのか暖かいのか、確かめるために。心が揺れるそういうこと。人間には時々それが訪れる。
部屋に着くなり、見ていたみたいにヒロコから電話が鳴る。慌てて出てしまった。
「なあに? あんたもマンション買う気なの?」
「うーん。買えるもんなのかなあって思っただけだったんだけど」
メールやラインをするのがわたし、電話をかけてくるのはヒロコだ。
「買えるんじゃない? 別に」
「そうなのかな。わたしの人生にそういうの、なんかさ、ノープランだったから」
「結婚をしてからって考えてたの?」
「ううん。そういうのでもないの。ただ人生のうち、実家は別にしても、この家はわたしの家っていうことがね、あるなんて想像もしなかったから」
「資料くらいなんとなく見てみたら?」
「そこ。だから、電話かかってきたり、訪問されたら困るし」
「訪問はないわよ。ただモデルルームとか行ったり、まあ、資料請求だけでも、電話がかかってくることもあるけどね」
「それにどう答えりゃいいわけなの?」
「つまり、『検討しましたが、今回は見送ります』って言えばいいのよ」
「ヒロコの方はどうなってるの?」
「うん。家はだいたい決まったの。国分寺のタワーマンション。最上階から二階め」
「ヒロコがマンションを持てるなら、私も持てるのかな? 変な言い方だけど」
「進もうと思わなければ、ずっとその地点で止まってるでしょう?」
「そっか。ありがとう。わたしお風呂入るから」
「イヴ、忘れてないよね」
「検討中よ」
わたしはお風呂に入るわけでもなく、パソコンを開いた。そして近隣の地名と「新築マンション」と入れて検索した。初めのうちは「仕様」とか「間取り」とか「近隣」とか「共有スペース」とかいちいち見ていたけれど、それもめんどくさくなって、あらゆる物件にチェックを入れて、一気に資料請求をかけたのは越谷だった。つまりそのマンションの立地によっては職場にとても近くなる可能性があるのだ。3980万円とか4980万円とか、2980万円とか、そういう数字が何を意味しているのかもわからなかった。わたしはその2980万円という数字を見ても、わたしには買えないだろうな、と思ったし、買えるのかなとも思った。とにかく皆目わからなかった。その2980万を割り算すらしなかった。面倒くさかったからだ。そしてこれは一種の遊びなのだと思おうとした。でもなにかそれはとても生々しい遊びだった。性的な遊びにも似ていた。秘密裏に生々しく、快感をむさぼる遊び。そこにはいつも大人から隠れなければならないというリスクが伴う。
そしてエアコンをつけて、風呂の掃除をした。もう〇字を過ぎている。冬だし、どうしても風呂に入らなければならないっていうわけでもない。そんな風に風呂を端折ってしまおうかとも思う。けれどもし、今日風呂に入らなかったら? 明日も明後日も入らないだろう。髪の毛は油臭く、ふけも浮く。それでも入らなくなるだろう。そしてトイレ掃除だってしなくなるだろう。洗濯も掃除も。一回の怠惰を味わえばそれに味をしめて、怠惰であることを貪る。怠惰に耽溺する。それをわたしは子供のころからの勘で知っていた。それはわたしの人生にとてもありうることで、それはマンション購入よりリアリティーがあるのだ。小さい頃に当たり前だった出来事、お風呂に入るとかシャンプーをするとか、歯磨きをするとか、部屋の掃除をする、脱いだパジャマを畳む。それをある日人は一つだけ端折る。するとその人は突然かもしれないし、ゆっくりかもしれない。けれどそうやって、人は精神病院に入るのだ。
イヴは二日後だ。翌日の朝少しだけ遅く起きて、すぐにそう思った。ベッドから起き上がるとすぐに目の入るところにすすけた新聞紙のような紙でできているカレンダーがはってあるせいかもしれない。そう、起きた瞬間に思ったのだ。イヴは二日後。
そしてお弁当箱に卵焼きとウインナーを入れてお弁当をつくった。少しだけ引っかかっているムートンのコートをまた着る。「クマみたい」とか「むくむくだね」などと言われて、今日着ていかなかったら、むしろ恥ずかしいって思ったのだ。そして職場に着いてももう誰も何も言わなかった。コートにもコートを着ているわたしの様にも何も誰も言わなかった。そして風が医院の扉にぶつかっていくような音をたてる。揺らす。奥さんはまた、
「それって、そのコートって本当に暖かそうね」
と言っただけだった。