また新連載最終話:卒女生徒
「モデルルームにご案内します」
「あのね、その物件が、わたしがとっても気に入るものであってもね、わたしは絶対にあなたからは買わない。それは絶対なの。フィンガーボールの水を飲むその王女の崇高さ。あなたも見習った方がいい」
ムートンのコートを着ていない割には妙なウソをついたものだ。とっさに言った「作家」。それにわたしは奇妙に胸が打たれた。わたしが作家であったなら。最後まで読んで笑ってほしい。I can speak English.Can You speak English? Yes I can.
とても美しい飲んだくれの弟が、どれだけの人を微笑ませようか? そして涙を流させようか?
そうモデルルームも見学できないまま、レイクタウンに寄るような気持ちも起きず、帰ってしまった。そうわたしの住まいは1K。そして木造モルタルづくり。マンションっていうのは買って住むようなものでもないらしい。わたしはその薄いチェックのコートを脱いでクローゼットにしまうと、ピースを吸う。最近たまにある。朝方まで間取り図へのシール貼りをしながら、危うくピースに火をつけそうになることが。そしえ溺れる。その作業に。それは夜の大人の遊戯なのだ。快感だって伴う。無意識にタバコを吸うようにはなりたくない。恋をして、恥ずかしいと思った。みじめだって思った。喜んだ。悲しかった。もう泣きたくない。あんな苦しい涙はもう流したくない。
それならいっそ引っ越さない方がいい。もう外に出ない方がなんぼかいい。そう思ってもわたしは洗濯も掃除もするし、朝ごはんとお昼ごはんは簡単なものだけど作る。朝ごはんはフルーツグラノーラ。相変わらずだ。けれど最近は冷たい牛乳をかけている。それだけだ。それがわたしのプライドだ。そのプライドでもって自分を救おうとしてる。それがわたしに朝脱いだパジャマを畳ませ、日曜でも着替えさせているのだ。
お隣の中年男性が子供用の電子ピアノみたいなものを弾いている。何度も止まる。我に返ったようにまた始まる。曲は「カエルの歌」だ。
エネルギーなら使い果たしている。いつも寝不足だ。準備をしようと助走をつける。ナイキを履いたわたしの脚は助走を走りきったところで足が上がらなくなり躓く。その瞬間に悪い予感は特にない。もしかしたらっていうナイキに似た気持ちにもなる。
あの人とはもう会えないのだろうか? 二回目にあの初めて会った交差点で肩が触れそうなほど、近くにいたのに、彼女は俺に気がつかないようだったし、俺はそれで急に自信がなくなって、声をかけられなかった。「やあ、また会ったね」、「あ、この前は」どれも違うような気がした。俺は何度も何度も彼女を振り返ったけれど、彼女は信号を渡り切っても、振り返らなかった。振り返らない。そういう女性だった。
初めて会った時、マックの中、コートを脱いだ彼女はとても素敵だった。タイトな黒いタートルのニットとボーイフレンドデニムがすごく似合ってた。
彼女は大地に実り、スズメを遊ばせる、夏はあくまでも青く、秋には黄金に輝き、実り立つ稲のような女性だった。俺は彼女がトイレに入った後、俺もトイレにはいった。そしてすぐに出て、彼女が出てくるのを待っていたけれど、その女子トイレから、出てきたのは別の女性だった。
俺は愕然とした。もう会えないかもしれない彼女と電話番号すら交換できなかった。ホットココアを飲んでいるときに切り出せばよかったと、死ぬほど後悔した。けれど彼女は、精神年齢と肉体年齢がともに成長したような、輝くような女性だったから、軽く、
「電話番号交換しない?」
なんて言えなかったんだ。
彼女はアップルパイを上手に食べた。あれは中身がびゅっと出やすい。それを顔を上に向けて、とてもおいしそうに食べていた。
次に彼女を見かけたのは、宅飲みの後、朝マックでも食おうぜっていうことになって、朝のマックに行った時だ。彼女はムートンのコートをもう着ていなかった。ネイビーのチェスターコートを着てナイキを履いていた。そして駆けていた。俺は無我夢中で追いかけた。三回の奇跡、もう使い果たしちまった。これがきっと最後なんだろう? サンタさん。おれはいつも通りのエンジニアブーツを履いていて、彼女はナイキ。勝ち目はない、そう思った。改札を通ろうと彼女少が少し歩みを遅くした瞬間、俺は彼女の肩に手をおいた。けれどそれにすら気づいていないみたいなまま、そのまま改札を通っていった。彼女を抱きしめてみたかった。その身体を全部俺が知りたかった。けれどもう奇跡は起きないのだろう。もう一回会えたなら、その冷たいのか暖かいのかわからない、謎の多い手を必ず握るのに。
彼女はスズメを遊ばせ、大地に立ち、実る黄金の稲だった。
そしえまっすぐ歩く。曲がることも、ショートカットなんていじけたこともしない、そんな女性だった。ただ、前をきちんと見て、前だけに進む。
彼女を抱きしめてみたかった。その身体を全部俺が知りたかった。けれどもう奇跡は起きないのだろう。もう一回会えたなら、その冷たいのか暖かいのかわからない、謎の多い手を必ず握るのに。