今考え中だ

こじらせ中年って多いですよね。恋愛市場引退したいような、それでいて、私だってまだまだ的な。「まだまだ、ときめいていたいっ」っていう完璧リア充も多いけど、一方で、わたしなんて、いやー、もう、でも?みたいな人も多いと思うんです。つまらない日常からどうやって目をそらしてこう?というヒントが提示できたらという作品を書いていきたいと思っています。また、考えすぎて頭がバカとか変態になっていしまった方へ向けてのメッセージも込めてます。若い人にも読んでいいただきたい!死ぬからさぁ。

セキセイインコ、君に啓す

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セキセイインコ、君に敬す

 

 セキセイインコは被捕獲動物である。ゆえに病気になっても元気がなさそうに、どこかを病んでいますっていう風にはふるまうわけにはゆかぬ。そういう風にもしふるまってしまったら、捕獲動物たちの格好の標的になるからだ。

 以前飼っていたセキセイインコプーチンちゃんもそうだった。元気だったころと病にむしばまれていた時期をはっきりと区別できるわけでもないけれど、つまりおそらくは元気だったころ、昼寝はよくしていたが、休憩をとっているような様はあとから考えてみると見たことがないような気がするのだ。

 プーチンちゃんは元気いっぱいにケージ内を暴れ、少し覇気がないような様子を見せたのち、ことりと死んだ。セキセイインコの死に方とはそういうあまりにもあんまりな、悲しい死に方なのである。

 しかしそこにセキセイインコの少しの武者震いを感じてはもらえないだろうか? ぎりぎりまで戦い、力尽きて覇気が出ず、勢い余って死ぬ。そこに尊さを感じえないだろうか?

 

 そういうわたしもセキセイインコ並の被捕捕獲動物なのである。 それゆえの迎合性、それゆえの饗応性。情けないといわないでほしい。

「プライドはないのかっ」

「うるせい!」

それこそがわたしの誇りとする、プライドポイントなのだ。病を持ち、いたずらに己を傷つけていたころはやっと過ぎ、今掃除をしたり洗濯をしたりご飯を作ったりして、いつも脈は早く、なにやら胸がドキドキし、掃除機を持ったままいたずらに部屋部屋を行き来し、いつのまにか身体はぽっぽとしだし、熱を測ればなにゆえか七度五分。おでこに貼った冷えピタをはがれ落ちてこぬよう豆絞り。滑稽な姿に見えるのならば、笑ってもよろしい。人に会えば、なにかを求められれば、おっしゃる通り!と迎合しつつ笑い、泣き、意見を述べるようにみせつつ饗応し、笑顔を見れば心からほっとする。お追従をいっているわけじゃない。ただ笑顔が見たいのだ。

けれどもしかしたらその直後に倒れるかもしれぬ。その性質を笑い給うな。か弱きセキセイインコの小さな胸に宿る精一杯の矜持とプライドを笑い給うな。セキセイインコ、君に敬す。

 

 

ウルトラ夫婦の人類愛について

ウルトラ夫婦の人類愛について

 

ウルトラの父は今日もご機嫌だ。

 

しかし、わたくしことウルトラの母はそうでもない。

 

意外にもウルトラ兄弟6人を出産した母だが、性格は意外にネガ。

 

口癖は「あーあ、やんなっちゃうな」

 

 

やなことがないとしてもそう言うのである。

 

父が絶好調であることには理由がある。

 

それは・・・ゾフィから誕生日プレゼントとして「肩もみ券が」が送られてきたのだ。

 

しかしそれにしても・・・と母は思う。

 

というのも父の誕生日は3月だ。

そして今は9月。

 

我が息子ながら、アホではないのかと疑念を抱く。

 

まあ、そんなことは枝葉末節であるのであるのだろうか?

 

人に、そして子に、寛大であらねばと少々反省する母である。

 

いずれにせよ子供たちは巣立っていき、今育てているのは黄色いセキセイインコのきぃちゃんだ。

 

セキセイインコをなめている人は多い。

 

 

意外に狂暴なんである。

 

そこに目をつけたのが、わたしたちウルトラの父ウルトラの母であった。

 

慧眼にも、「こいつはいずれ、地球を守る、立派な戦士になるであろう・・・」

 

ということを見抜いたのだ。

 

まあ、それは置いといて

 

夕食も終わり、入浴を済ませた時、ビール(発泡酒)を飲みながら、父と母は愛について語り合う。

 

私たちはウルトラの父と母であるから、やはり人類愛と「地球を救う」という愛について語り合うことが多い。

 

今日のテーマは「ネッシー」だった。

 

箇条書きにさせてもらう。

 

  1. ネッシーは日本語を理解できるか?
  2. 日本語がダメなら英語はどうか?
  3. 英語がダメならチベット語は?
  4. 愛を持っているのか?

 

というテーマだった。

 

いささか酔っているせいか、「愛はあるっしょ」、「いや、ないっしょ」、「いやいやあるっしょ」、「いやいやいや、ないっしょ」という適当な話を堂々巡りする中、携帯が鳴った。

 

いやな予感は当たりその電話の主は本間さんだった。

 

本間さんは少々酒癖がよろしくない。

 

けれど愛にあふれているのがウルトラの母

 

もちろん電話に出るのである。

 

今日の本間さんは話を妙な角度で切り出した。

 

「あのさあ、男の人紹介してくれない?」

 

紹介できる独身の男性。思い当たる人間がいる。

 

ウルトラの父の先輩なのだが、会うたびに「女の子紹介して」と口走るのだ。

 

もちろん50代前半、実家住まい、薄毛、メタボリックシンドローム、ケチ、というその男性が特に女性にもてた時期というのもないらしい。

 

そこで、わたしは本間さんにこう言った。

 

「紹介できないこともないけど、クレームは受け付けない。約束できる?」

 

そう、これはメタボリックシンドロームの50代と、本間さんその両方に対するからの言葉だ。

 

そう、言っておくが愛ゆえだ。

 

そしてその週の金曜日、メタボと本間さん、私たち4人で酒宴を我が家で開いたが、メタボは自分の飲んだ酒代くらいは払うと言うが、ウルトラなわたしたちが断ると、

 

「あっ、そう?」

 

と言って帰っていった。

 

そして本間さんと言えば、酒が進むにつれ

 

「どうせ、私なんかさあ」

 

と言いながら沖縄の古酒を手酌である。

 

ウルトラ夫婦も眠たい午前3時、もちろんいずれ世界を救うきぃちゃんも眠る中、我が家には本間さんの

 

「どうせ、私なんてダメな女なんでしょ」

 

等々の「どうせ」が響き渡っているのである。

 

<連載>1、嗅ぎまわれ駄犬・真夏の夜のホラー

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嗅ぎまわれ駄犬・真夏の夜のホラー1

その日はAスタジオで収録があった。映画のシンポジウムだ。雰囲気はとても砕けたもので、その中にはお笑い芸人も交じっていから、冗談も入り混じるような、そんなシンポジウムだった。シンポジウムは学生代表とか、社会人代表とか、先も言ったようにお笑い芸人代表とか、音楽家代表、そして文化人代表は小説を書いている俺だった。俺の座る席、その前の簡易デスクに、「作家 二宮崇」と書かれている。俺のペンネームだ。俺はそのペンネームを思う。本名ではないということだ。本当の俺とニセモノの俺がいて、本当の俺が思っていることを、ニセモノの俺は決して口外しない。その卑怯さ、狡さ。俺はそんなことをぼんやりと考えていた。

 「先生、何にもしゃべってないなあ。なにかいいと思う映画、ないんです?」

俺は俺がしゃべらなくてならない場面きたら、こう言おうと思っていたことを話し出す。

「やっぱり、俺なんかもう、無邪気にジブリを見れるんですね。そうそう無邪気にね。でもね、そこにあるメッセージ、それも汲めるじゃないですか。ジブリのテーマっていうのはさ、人間対自然、それにつきると思う。そして人間と自然の共生。それをテーマにしているよね。最終的にはね、それがね、見ている人を傷つけないんだって思うんですね。つまりやさしさなんですね。そこに着陸するよう、エンディングを持っていく。ジブリのね、エンディングは見ているととてもやさしくなるでしょう。そうなんだよね」

 そこで一口水を飲んだ。

「そしてまた一方なんだけど、俺は北野武監督も評価するんだよね。映像がさ、妙に乾いているでしょう? そう暖かい、暖まる場面であっても乾燥しているんだ。そしてやたらと妙に人が死んでいく。そして映画はそれがどうということでもないように進んでいく。多分北野監督の映画っていうのは『どうでもいいんだ』っていう映画だっていう気がする。人の生き死にさえ、意味なんてなくて、俺にはどうでもいいっていうテーマで作られているっていう気がする。北野監督の映画の少しホッとできる、愛情が垣間見えるような場面にしたって、それに足をすくわれず、いつでも逃げ出せるよう、必ず助走を怠らない、そんな風に見えますね。俺には」

 すると俺と同じく、それまで寡黙だったが、水を向けられるとそのたびに

「わかりません」

「知りません」

としか答えなかったロックミュージシャンが、

「そんなに長くしゃべれて羨ましいぜ」

と言う。もちろん侮蔑だ。

「決まったことにたいして『同じく』という意味でしかない言葉を、赤い顔をしてしゃべる猿みたいな男だ」

司会者は眉毛を下げて

「まあ、まあ、いいじゃないですか」

とそのロックミュージシャンをなだめようとする。その司会者になだめられたのか、それともなだめられていないのか、それもわからない。

「認知された芸術を、今俺が初めて認知するっていうような顔をして。もっと嗅ぎまわれよ。雑種の勇敢な犬のようにさ。もっと違うことに情熱を傾けた方がいいんじゃねえか? そう、例えば練習。音がしたってスマホを開かないでね。それを練習と呼ぶんだ」

 そいつの言うことは、みな当たっていた。論破できない。それで俺は『猿みたいな赤い顔』をしてデスクの上に握ったこぶしを置いているしかなかった。

「まあ、諸説紛々。色々なご意見があるわけで」

しかし司会者が引き取るように言うと、そのロックミュージシャンはやっと黙って、足を組んだ。

 俺は小説家だっていうのに、ここ一年以上、作品を書いていない。それはなぜかと言うと、答えはとてもシンプルで「書けない」からだ。そう、今日のシンポジウムにしたって、あのロックミュージシャンに言われたように、既存の作品の評価の焼き直しにしか過ぎない。俺はそれをしゃべっている間、錯覚を起こしていた。それは俺が初めて認知し、それを始めて「これはいいものだ」と人に紹介でもしているような錯覚だ。錯覚? また俺は俺をだます。それをよく知っていて、当たり前の認知を誰も反舶しないだろうと思って言ったのだ。猿面冠者とは俺のことなのだろう。あのロックミュージシャンは間違っていなかった。

「嗅ぎまわれ、雑種の勇敢な犬のように」

 嗅ぎまわる。俺は最近嗅ぎまわっているだろうか? 否。嗅ぎまわることすら、なにもかもの言い訳、それを後ろ盾にするように怠っている。勇敢な雑種のような犬だったことが過去にある。それは俺が作家としてデビューする前のことだ。俺は何作も何作も書いた。あらゆる公募のない期間にも、俺はうろうろするよりも書いていたかった。書かないと死んでしまうような気がしていた。そう、それは外じゃない。コンクリートで固められた、安全だが謎の多い部屋でだった。木造で建てられた家に住む家族であっても、俺はその嗅覚でもって、その謎を見つけることができたはずだ。どの家、一人暮らしであろうと、家族がいようと、俺はそのどこかにある謎を探し出し、物語を紡いだだろう。

 だから俺は待っていた。その情熱みたいなものがまた湧き上がる瞬間を。あのロックミュージシャンのいうとおりだった。今はほとんどの人や動物に心地のいい春だ。キャベツ畑にはモンシロチョウだって愉快そうに飛んでいるだろう。けれど俺はじりじりとじれったい思いを抱えている。

「真夏になれ! 汗をかかせろ! 俺を極東へ連れていけ! 極寒を俺に感じさせろ!」

そのとき、必ずついてくるに違いないのだ。それは「走る」という衝動だ。そいう匂いのするなにかだ。俺はただ、今、ムラサキスポーツで買った、アディダスのゆるめられた紐を結んでいる。そうしてじりじりと待っている。それがくるのを。

 

 その夜には、高校の同窓会が待っていた。

「おお、にのちゃん」

俺は高校の時から、「にのちゃん」と呼ばれていた。それは俺がお昼の休憩中、放送室をジャックし、

「あー、あー、あー、聞こえますか? 俺はね、俺っていうのは、将来偉くなります。偉くなって、誰かの生死を決めることができるほどに偉くなります。その偉くなるっていう姿は、その目標に応じた、努力とかね、そうだね、そうでっかいことをね、それがキラキラしていてね、あー、あー、聞えますか? いやあ、アドリブなんだよ。つまり芥川賞を取るっていうこと。作家になる。あー、ペンネームは「ニノミヤタカシ」です。覚えておけ!」

 俺はむっとした顔つきで、今頃お昼の弁当を食べているだろう、一年二組に戻った。戻って教室のしまっていたドアを開けると、「わーっ」とした声とともに拍手が起こった。さすがの俺も少しは照れ笑いをした。

 それからだ。俺が「にのちゃん」と呼ばれるようになったのは。それからは俺は論戦を繰り返した。たとえ浅い知識であっても、たとえ浅い知恵であっても、たとえ浅い考えでもあってもだ。純純文学とでも言いたいような文学に俺は異を唱えた。するとそれこそが純文学の目指す地点だと誰かが言っていたような気がする。俺はそれにはこう答えた。

「もしそうだとすると、お前の言っている純文学の目指す地点っていうやつは、作者一人しかその作品を読みえない、そういうものになってしまうぜ」

 俺のプライドはそこじゃないところから始まっていた。俺はそうはいっても本を読んでいなかった。カフカカミュ太宰治夏目漱石のファンだった。いつもどれかの文庫が学生カバンには入っていて、すごいなあ、おもしろいなあ、などと感心しきりと読んでいた。そして公募に挑戦するほど、その頃実力はなかったのだろうが、夏、机の電灯に蛾が止まれば、止まった様子とその蛾の心境を書き、オヤジに怒られたら、しみじみとした、オヤジの気持ちと息子である俺の気持ちをノートに表現した。それは毎日行っていて、それが俺にとっての「練習」だった。俺が意識していたのは純純文学が向かっていく、地点ではなくて、真心、やさしさ、サービス、親切、そんなものがある、それでいてエンターテイメントに過ぎない、そうじゃない、そんなものを書きたいとおぼろげに思っていた。

 けれど小説家になるっていうことは、そう簡単なことじゃないって大学の頃思い知らされた。俺よりうまいんじゃないかっていうやつはブンガクサークルにもいたし、そいつでさえデビューはなかなかできなかった。そして俺もだった。俺の高一のときに描いたプランは、大学一年、しかも七月七日っていう冗談みたいな誕生日の前にデビューできると信じていたのだ。

 その後大学を卒業してからは、深夜のコンビニでアルバイトをした。親には「俺は小説になるのだから」と説明した。オヤジは「ふん、そんなもの」っていう風で、おふくろは「じゃあ、頑張るんだよ」って風だった。俺はそれからは猛然と書いた。公募があれば応募した。差し迫る公募がないと焦りを感じた。三か月も書かないでいたら、俺はきっと死んでしまうぞと。そんな時はたいてい、高校の同級生、新ちゃんに電話し、なにか仕事をくれ、と頼むと、新ちゃんはわかっているっていう感じで、

「じゃあ、先生。一〇〇枚のラブストーリーを」

っていう具合にお題をくれた。そして電車と競争する駄犬のように、俺は書いた。

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エッセイ:ガン見vs引いた目‐ズンドコ節の考察~って言ったらウソだけどw

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tamami2922.hatenablog.com

 

ガン見vs引いた目‐人がズンドコの時とるべき目線

11 Tips on Creating Innovative Collage Images for Stock — Re-Envisioning Daily Objects

 

納豆食べるとツイートしといて、目玉焼きを食べた、軽く裏切りがちなたまみです。

人ってが幸か不幸化の渦中のどちらかにいるかを決めるのは、己の主観によるものである………、ま、多少そんなところもあるでしょう。しかしね、いちゃらぶな恋愛中と、失恋した………との幸不幸の違い、昨日の夜は香港で軽ーくご飯してきた―――という方と、ど、どしよ、給料日までカップ麺で我慢か。。。という方の違い、これは明らかで、絶対的に、どちらのケースにせよ、価値観の違いはあるにせよ、前者のほうが幸福であり、後者のほうが、不幸であるとはいえるわけです。

この前、女子の友人がうちに遊びに来たわけですよ。私は多くの友人は持ちえないけど、その友人とは忌憚なく、なんでも話せる仲。それでねえ、その友人が言うには

「ねえ、きよみさん、わたしさあ、実を言うと先月彼氏と本と言うと揉めててさ、いつもは衝撃を受けても、心中に沈んでいく、何となく紛れていく問題が、それが起きた日はやけに、苦しくて、悩んじゃってね。そいういことない?」

「あるあるあるある。あるーーー。」

っていう会話があったわけですよ。それでねえ、私が考えたのは、友人にそのトラブルが起きた時、彼氏と揉めていたという点であるのは明らかっすよね?

彼氏と揉める………これは、一般に女子にとって生死を分つw大問題でもあるわけでわけです。そんなとき起きた、どうやら仕事上らしい何らかの凹むトラブルがあったというわけですね。

人って、疲れる、サーカディアンリズムに逆らってる、ストレスを受けているっていう時、セロトニンが出にくくなって、メラトニンが作れず、不眠になったり、幸福感を感じにくくなる。

そういった、割と「私はいま不幸である」という気分の時、人って、対象物に近づきすぎる傾向があると思うんです。対象物、トラブルをガン見。ガン見しているんですから、視界はそれでいっぱいなはずで、脳内もそれでいっぱいになる。すると、いつもはスルー出来たり、紛れていく事々、ものものが、そういう風にできなくなってしまう。それが、不幸であるということの正体というか、状態、本質であると思うのです。

そこで、我々は、「引いた目戦」を常に持つべきなのです。引いた目戦を持っていさえすれば、何らかのトラブル、問題が、日常のあらゆる事々、ものものの、「それらのひとつ」になっていくはず。すると、ガン見していたときとは違い、トラブルや問題で脳内がいっぱいになって、苦しんだり悩んだりすることが、リスクとして減っていく。それは、悩むとか苦しむとかはあるのでしょうが、one of themで済むわけです。そして、それが、人が健やかであると言いますか、幸福であるというような、正体であり、状態であり、そして、本質であると思うのです。

ですので、常に我々は、どこかに「引いた目線」を設定しておいたほうが良い。それは間違いないです。では、なぜ、人はたまに不幸に陥ることがあるのかという問題が生まれますよね。引いた目線を設定できているはずの人であっても。

Anser.

答えは簡単なんです。それは我々は、多かれ少なかれ、どこかに愚かというか、バカな部分を持っているからだと思うのです。それはねー、近しい人の死、大きな失恋、そんなときに、one of themとか言ってられなくないですか?

愚かな私たち、いつもは楽しくやっても、ズンドコはたまに訪れるわけですよね。そうは言っても!!引いた目線、忘れず設定してください。

人間は何故生きていられるのだろう

私は常に、テンションがノーマルな時も、ハイな時も、下がっているときもこの実存的?ともいえるw考えを考えざるを得ません。人間以外の動物って、己が死ぬ時があるなんて知らないで生きているらしいですよね。しかし人間は知っちゃう。いつの間にやら。自分がいつか死ぬことを。それを知っていて生きているということや、人間という矛盾に満ちた、絶望的存在について考えた時、なぜ生きていられるのかなあーーー??と考えちゃったりもするわけです。

しかし、人間も動物の一種なのですから、自分で自分を殺すとなると、それは変態であって、病気とも言えちゃうわけですよね。

多くの人が、何らかのテーマを抱えているとは思うのですが、たまにはそんな実存的問題を考えてみるのも悪くもないそうです。医者が言ってました。

ただね、そこに落ちると、ぐたくだぐだぐだ、めんどくさい人になってしまったり、めんどくささを発露したのち、私ってウザ、私ってウザって考える私ってウザwというループにはまっていく。

そして、そんな実存的な問題を「考えてみる」ではなくって、考えちゃう、頭がいっぱいになっちゃう、「落ちてぐだぐだになり、めんどくさくなり、ウザに行きつく」とぃう状態を、私は不幸である状態と呼びたいw。私にもよくあることなんですが(というのも、結構バカだからねーー私w)、それはテンションに左右されているわけですよね。

先ほども述べた通り、テンションの上下がその、何らかの実存的テーマに付随した「落ちてぐだぐだになり、めんどくさくなり、ウザに行きつく」に大きくかかわってくるはずで、そのテンションを決定するのも当たり前で恐縮ですが、幸不幸であったりする。

引いた目線。どこか宙に浮いた目線、見渡す目線。裏側も同時に見る目線、これらの設定はとっても大事だという結論が出ました。

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短編シリーズ 題:鶏がらスープとキムチと恋

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鶏がらスープとキムチと恋

 虚構とは、ときに真実を凌駕する。この事実を実感したことのある人は、案外、多いのではないだろうか。だって、私たちは常にフィクションに囲まれて生きている。いや、育ってきた。生まれて一番に与えられるものは、ミルクや母乳、食べ物、そして衣食住に関する様々なものだろう。そのうちにでんでん太鼓的なものを、ばばあに与えられるかもしれない。ほらみろ、どうやら、人は「衣食住」という、生命を守るものだけでは生きていけないという、もしかしたら不幸な暗示が、訪れるのだ。生後0歳にして、だ。そしてたいていの人は、次に生命の存続に何ら関係のないと思われる、そう、フィクションに触れることになる。それは、テレビのアニメーションであったり、ディズニーやクレヨンしんちゃんのDVDが車中で流れていたり、または絵本を買ってもらう、という形でだ。フィクションに触れた私たちは、ドキドキや、わくわく、つまり「ここにないもの」への夢想、期待、憧れを抱くだろう。日常より、それは、とても突き刺すものであることもある。痛いこともある。焦燥を駆り立てることもある。そして、いつかのとき、私たちは、フィクションに涙する。慰めを得る。もちろんそうではない人もいる。けれどそれが顕著な人もいる。

ここに、41歳の夢想家がいた。ネットカフェで漫画ばかり読んでいる。ネカフェでシャワーを浴びたなら、バーで一人、ウイスキーハイボールと、柚子の入った梅酒、どちらもとても濃いのだが………を飲む。そして携帯を操りながら、その日読んだ、マンガの枠の中、霧が立ち込めるその中を、うろんとした頭で歩き回るのだ。気づけば、パチパチという、花火のような音と、拍手が起きていた。どうやら、客の一人の誕生日であったようだ。彼女も笑顔でその小さなバースデーケーキと、顔を赤くした若い女性を見て、手を叩く。拍手であった。彼女は、若い女性を見ても、高校生を見ても、子供を見ても、「ああ、私にもあんなころがあったっけ」などとは、思ったことがない。どうやら、もしかしたら、一般的にそう述懐しがちな人たちよりも、必死らしいのだ。なんだか、汗をいつもかき、一生懸命生きているらしい。それは勿論、誰だって、一生懸命生きていることには違いない。けれど、どうやら彼女の場合、歩くということに際し、右の足を前に出すべきか、それとも左か、そのとき腕は振るべきか振らざるべきか、それにしたって一生懸命考え、必死の思い、もうそれはそれは、真剣勝負、私は今、右足から出した。変じゃないか。変ではないか。道行く人、果たしてみなそうしているのか、おかしかないか、勇気振りしぼって周囲を見てみよう、私を見て笑う人はいないか、子供は私を指さしていないかと、戦々恐々たる面持ちなのである。これを一概にただの「自意識過剰なおばあさん」と笑っていいものだろうか。ここで私は少しだけ思う。これが単純に「自意識」という若やいだものによるものだとしても、その自意識、失ってはいけない。私には理由をつまびらかに説明できぬまま、それは尊いもののように感じられるのだ。とても大切な。もし、自意識を、一切合切、失ってみたら、神は銀河鉄道から、あなたを落っことすでしょう。神様を勘違いしてはいけない。神様は背後に薪を背負っている。そしてそれはぼうぼうと燃え盛っているのだ。疲れた年寄りは許しても、オナニーばかりしているサルと、自意識を失った、原始人は許さないかもしれないと私は思う。

 そして、その憐れな彼女の名は愛子という。ありきたりな名前であるのは偶然で、父と母は、エホバの証人を信仰していた。愛、そして子。彼女は自分の名前について、よい名前だと思っているものの、エホバの証人は信仰していないのだそうだ。自意識、自意識の過剰。彼女の性格のこの傾向、行き過ぎたこの傾向の由来はやはり、フィクションだった。彼女の癖は、己をフィクションにしてしまうことだった。その証拠に、夜、自分で漬けた梅酒を少し飲みながら、小説を書いている。誰にも見せないのだそう。胸底奥深くしまい死んでいこうと、旦那にも秘密にして、にやにやと笑っている。誰かに見せる、勇気。そんなものとっくの昔に失ってしまった。なぜなら彼女は小食だったこと、お酒を飲みすぎる傾向にあったからだ。創作の欲求は別だ。創作の工夫も別だ。けれど、「発表」、これには体力を必要とした。うまく言った。そう、胸底奥深く。彼女の己の狡さ、怠惰さを、なんとなく、ごまかす、そして紺色のワンピースの似合いそうな、奥ゆかしく、秘密めいた印象すら与えるではないか。けれど。それは、運動も嫌い、食べるのってなんだか面倒くさい、そんな彼女の怠惰をごまかすための言い訳に過ぎなかった。彼女は洗濯ものを庭に干しながら考える。彼女は夫のTシャツを干した。一事が万事、そうなのだ。

 彼女は、考える。どうも私は寝相が悪いなあ。旦那とは別々のベッドで寝ているし、ベッドもセミダブルだけど、これは正解かもしれない。寝るときに置いた枕の位置、この枕におのが頭部が朝、乗っていた試しがない。そして、どうにもこうにも、年のせいか、肩や背中や腕が凝る。それは勇者ヨシヒコの持つ剣をぶすぶすと突き刺すようんなするどい、かなり弱ってしまうほど、強い痛みで、本当に最近参っている。病院で薬を処方してもらい、飲み始めて2週間近くになるが、あまり効果はない。いつになったら、この痛みから解放されるのだろう、それが目下の最大の関心事だ。いつ、この痛みから解放される? いつ? いつ? いつこの痛みから自由になれる? 

 私はよく人がやるように、夜寝る際にベッドで携帯を充電する。彼女は今夜もUSBに携帯をさした。彼女はどうも眠りが浅く、これも目下の少々の悩みではあるが、体が常に痛いということに比べると、それほどの悩みでもない。私は今日も洗濯した清潔な枕カバーに頭を置いて、目を閉じた。薬なら40分ほど前に飲んである。私は1時半頃に眠ったと思うのだが、2時半には目を覚ました。腹ばいなって考える。彼女は夢を見ていたらしい。泰孝君の夢だった。お寿司屋さんでカウンターに並んで一緒に茶碗蒸しを食べていた。泰孝君は、どうしてなんだろうと思うほど、彼女を追いかけて追いかけて、どんどんみっともなくなっていく。給料で旅行や、アクセサリーをそれはそれは一生懸命買う。彼女は、泰孝君にこう、ラインした。「もしかしたら、あなたを愛しているのかもしませんよ」。卑怯千万である。どうやら日頃のお寿司や、温泉旅行、アクセサリーのお礼にと、ふっと夜中に思いついた、計算こそないが、幼稚で浅はかで、なんの優しさもない一言メッセージであった。私は彼女がそうしたことに気が付き、これをすべて虚構にしようと、ラインをSDカードにダウンロードし、フィクションとしてすました顔をして、生ぬるい扇風機の風を受けながら、生ぬるい水をごくんと飲んで、眠ってしまった。

 次に彼女が目を覚ましたのは、3時40分くらいだった。その時は私はトモクンの夢を見ていてた。トモクンはとても背が高い。そして顎にひげをはやしている。私は気づいている。本当のことを言えば、彼女はトモクンの隣で眠るのが心底嫌なのだと。どうしていやなのだろう? と少々考え、彼女は、トモクンの体の毛深さに起因しているのではないかと、結論付けた。それはやはり彼女とトモクンの間にはそれなりの関係はあるものの、彼女は、トモクンとのホテルでの密会を、それを目的にしていなかった。トモクンは体に見合う、かなりの酒豪であったのだ。トモクンも彼女もいくら飲んでも吐くことはない。トモクンについては知らないが、彼女は大量のお酒を意識がちぎれるまで飲む。トモクンには独特の癖があり、彼女とトモクンの行いを携帯で動画を撮る。そしてそれを彼女に送り、彼女はそれもまたSDカードにダウンロードし、みんなみんな、フィクションにしてしまう。彼女はまた、その動画もすべて「ちぎれてしまえばいいのにな」と考えている。映像は、画素というもので構成されているらしいが、私なんて、みんな画素がバラバラになって、点になって、それらは霧散し、とても固くて、よそよそしい霧みたいになってしまえ、そのくらいまで、ちぎれてしまえ、そう思いながら、お酒を飲み続けるのだ。動画を再生することはないが、そのなかでトモクンは何回も、「愛ちゃん、愛ちゃん」と叫んでいる。その「愛」、「愛ちゃん」という名前、呼び名、これもSDカードの中でフィクションとなり、「愛」も「愛ちゃん」も意味が擦り切れるのか、何を意味した音声なのか、誰にも、トモクンにも、彼女にも分からなくなり、誰にも分らなくなり、音だって、そう、ちぎれていくのだろう、高さ、大きさ、音色、すべてがちぎれ、音は音ではなくなっていく、始めは、何かのうなり声で、それすらなくなり、音自体がなくなる。つまり無音になるのだ。画素の点の固い、霧中、無音。それが私の目指す虚構だった。フィクションだった。別に悲しいとも思わない。それが私の目指すフィクション。真実を凌駕する、真実よりも真実めいたフィクションだった。

 しばらく私は寝付けなかった。昔、全く眠ることができずにいた時期があった。あれはなんだか、奇妙に苦しかった。何かすればいいと父は私にアドバイスした。テレビを見る。音楽を聴く。本を読む。雑誌をめくる。私はそのアドバイスに従い、朝、新聞配達のバイクの音が聞こえると、めそめそと泣きだした。何回か自殺未遂を試み、成功しそうになったり、明らかに失敗し、困惑したまま病院が開く時間を待ってみたこともあった。冷蔵庫に入っていた缶詰のパイナップルを食べた。お腹が痛くなった。水道の水は夏のこの季節、確かに生ぬるい。けれどそれが気持ち良い。外は明るくなり、明るさは真空を想像させる。けれどそうではないとは、音の要素が、私にばらしてしまうのだ。なんだか今晩で初めて気持ちよく眠った。石塚さんから電話がかかってくる夢を見た。水曜日に会いましょう。石塚さんとは、一回、お酒を飲んだ後、1時間だけカラオケに行った。都内でIT関係の仕事の営業をしている。成績はいいらしい。千葉の流山に大きな家を建てた。趣味は食べ歩き。ある駅にある、少し有名な串焼きやで、串焼きともつ煮を食べて、ホッピーを飲んだ。私が店を出ると、石塚さんがそっとすぐ後から店を出た。私は精神病院で栄養士をしていると嘘をついた。あの店のもつ煮に入っていかなったこんにゃくは、水溶性食物繊維。石塚さんは、最近、健康を考えて、豆乳を飲み始めたのだが、と言った。私はそれはいいと言って、なるべくなら成分無調整がより良い、と付け加え、カラオケ屋で、酔ったキスを長くした。電話番号も交換したが、電話はかかってきていない。彼女は………、私から電話してみるべきだろうか、と1週間と4日間考え、SMSで「水曜日に会いましょう」とメッセージを送ってみた。けれど、2週間たった今、返事すらない。誰にも会いたくなんてないのに、どうしてもどうしても、石塚さんに会わなくては、とても会いたいからという強迫的な気持ちになる。セブンイレブン、ウェルシア、東武ストア、バス停まで歩く。それらは好きだが、特に誰かに会いたいなんて、どこかに行きたいなんて考えなくなった。自室でしゃがんだまま、猫の「みい」の頭を何時間でも撫でていたい。大きく暗い川の表面を、川を舐めていくみたいに葉っぱが滑っていく。とても速いスピードだ。朝、7時に泰孝君からのラインを告げる音で目をさました。携帯の画面を確認した後、また目を閉じる。目の裏側に意味をなさないアルファベットが並んでいる。よくわからない、Wi-Fiのパスワードみたいだ。それらがいくつか並んでいる。彼女は一つグレーになっているアルファベットの表記をタップした。すると石塚さんと串焼きともつ煮を食べたこと、ホッピーが濃すぎたこと、カラオケでキスをしたことはドキュメントとなり、携帯の内部ストレージに収められた。足りない。圧倒的に足りない。それはまだ、現実みたいだ。夜寝た時に見る夢だって現実だって言える。私はそのドキュメントをSDカードに移動させた。長かったキスもみんなフィクションとなり、私の手も足も、体全部もフィクションとなった。私は確かにこのストレージにいるけれど、彼女はあのストレージにいる。今晩分だけ。けれど、昨日までもこれを繰り返してきたし、明日からも繰り返すつもりだ。記憶を残した頭をベッドのどこかで見つけて、起きてしまうのならば。そうか、頭の中の石塚さんの言葉、「水曜日に会いましょう」は、きちんとした意味を持つ、現実の中で発した、私から、石塚さんへのメッセージだったのだ、と気が付いて恥ずかしいと思った。当たり前の女らしい、恋心と、未練である。

 確かに好き男性ならいるのだ。その人は私とは違う地平にいた。私は低い地平にいて、その人は高い地平にいる。その私のいる地平と、その人のいる地平は水平で、絶対に接することがない。悲しい出来事にぶつかると、ついででもあるかのように、気が狂う寸前のように、発狂しているように涙が出る。嗚咽と鼻水と、呪文と共に。私は頭の地肌から汗をかきながら、しばらくの間涙を流す。そして泣き止むとケロッとして、うっとりとした、とてもよい詩を読んだ後のような気分になる。もしくはとても面白いテレビを見てたくさん笑った後のような気分になる。どうしてもここにいて欲しい人。話しかけたい人。不機嫌になってしまう人。恥ずかしくなってしまう人。手を触ってみたい人。体温が私より少しだけ高い人。いつも唇が荒れている人。私の白いブラジャーの隙間に手を入れて欲しい人。湿った肌の湿度を確かめて欲しい人。冷たいベッドで裸で隣に寝て欲しい人。いつも笑っていて欲しい人。どうしてか知らないけれど、私のことを良く知っている人。閉じこもりたい人。廃墟で二人きりで暮らしたい人。夜の誰もいない公園で、目が合ったら笑いたい人。そうはいっても、その人を考えるとき、突き刺さる性欲と熱狂、その切実でとても切実すぎる思いとは裏腹に、とても激しい戦争映画を見ているような、マフィアの銃撃戦を見ているような気分にしかならない。とても冷めているのだ。どうでもいいのだ。あっちの方ではずいぶんと、命が失われたり、けがをする人が大勢いる。死に至るけがを受けた人もいるだろうし、倒れている人は瀕死の状態で、次の瞬間に死んでしまうのかもしれない。けれど、それはきっと「画素」で構成されたスクリーンなのだろうし、私には関係ないのだ。戦争やマフィアの抗争のフィクションが与える私への影響は、「そんな気分」にしかすぎない。ときにはジブリでさえ、私にはそんな風に映るのだ。熱狂と冷凍庫みたいな冷静。ずっと好きな人。小さな子供のその人を想像ですらできる人。シャーベットのアイス。それは平たい棒に刺さっている。つまりgrgrknだ。要するにガリガリ君。70円。消費税含めて75円。暑い夏、そのガリガリ君を握りしめて、恋しい人を追いかけてみた。すっと道を曲がる。私も曲った。家賃の高そうな高層マンション。気ちがいの女性が一人で住んでいる低い市営団地の影は、当たり前だが、高さが違う。そのでこぼこは異邦人を思い出させる。隅の花壇には、パンジーがぺしゃんこに枯れている。アイスは水滴を点々とたらしている。影しか踏まないように気をつけながら歩いた。円盤の陰。それは私がかぶる、大きな歪んだ帽子の影で、幽霊みたいだった。幽霊と押し入れ。あの人はどんどんさきに行ってしまう。そして90階あるように見える、高いビルに入っていった。私もビルの前まで行った。ビルの前で食べかけのガリガリ君は落っこちた。ぐしゃ、という音すらせずに。今、どんな建物の影も、薄く長く、私の帽子の影も薄い。どうしてかというと、夜になったからだ。月に血管みたいなグレーの筋が浮かんでいる。大きな月のそばに、大きな緑色の円盤が浮かんでいる。窓はオレンジ色にともる。暖かい色の星が反対側に浮かぶ。そこだけが、きっと優しい者たちがみんな、着地する場所なのだろう。そして、「救う」ということを、みんなが考える、そんな場所なのだろう。彼女はそう思い、家路についた。肌に触れる風は、悲しかった。

 昔入院していた病院にIさんという30歳程度の女性がいた。完全にイってしまっていて、フォーカスが他の誰とも違う。とはいっても私だって、外の人たちとはフォーカスが違っていたし、入院している誰もが、独自の場所にフォーカスを置いていた。そのフォーカスは常に移動するのも、入院患者の多くの人たちの特徴だったし、私もそうだった。Iさんは外泊ができなかった。お父さんが迎えに来ないと、外泊ができないらしかったが、お父さんはどうしても、迎えに来なかった。Iさんは外泊の日、外に通じるガラスドアの前の椅子に大きなバッグを膝において座っていた。ちょくちょく看護婦さんがやってきて、「Iさん、お父さん今、お仕事なんですって」、「Iさん、今、お父さん、ご親戚のお見舞いに行っているんですって」、「Iさん、今ね、お父さん、お友達とのボーリングを抜けられないそうなの」。だから、だから、Iさん、こんなところに身じろぎもせず、黒目の位置さえ変えず、座り続けていないで、一回病室にかえったらどう? Iさんが、外泊に成功したことを私は知らない。そしてIさんのお父さんもついぞ、見かけたことなかった。つまり、見舞いにすら来なかった。Iさんはいつもお小遣いにも困っていて、バスタオルを一枚しか持っていないらしかった。髪は年配の看護婦さんがカットしていた。あの頃はSDカードなんて知らなかった。あの頃は彼女なんていなかった。私は愛子という名前だったし、彼女は愛子ではなかったのかもしれない。正確に言えば。けれど、あの頃が良かったという思いはない。私はIさんに、いつか食べた、鶏のスープでできた、優しいラーメンを食べさせたかった。食べさせたいと言うと、なんだかおかしいのだが、無性に無理やりにでも、Iさんにその、鶏のスープの白い少しだけ白濁したラーメンを「食べさせたかった」のだ。そのためには、鶏の首を絞め、ばらばらにさばき、骨から、脂肪も、筋肉も、筋も取り除かなくては、美味しくて、透き通った優しいスープはできない。風通しはいいのだが、ブロック塀で囲まれた個室。音楽を流す機器もない。楽しいという感情もなければ、悲しいとも思わない。熱狂はもちろんないが、適度な温度の冷静さはある。今の結婚した私のアパートの自室ととてもよく似ている。床はアスファルトで、青いホースから、清冽で冷たい水が常に流れているもんだから、床はいつも清潔で、潤っている。首を絞められた鶏がいくつも並ぶ。私は骨から筋や筋肉をそぎ落とすのに難儀をするので、一計を思いつく。つまり万能包丁の歯の方を骨に直角に当て、ゴリゴリと音をたてながら、こすっていけば効率的というわけだ。私は明後日、リコンする。隣には匂いもしないが、キムチ工場が煙を立てている。キムチは鶏の首を絞めるなどして作るわけではない。けれど、私は自信を持っているのだ。この鶏のスープでできたラーメンは、心に湯気をたたせる力をもつ、とても暖かく、透明でドロップの形に似た、涙にとても似ているのだと。私はキムチをそれほど食べないし、詳しくもない。けれど、優しさは、次の片足を前に出す、勇気を与えてくれることがたまにはあるのだ。Grgrkn、ガリガリ君の反対、平たい棒に刺さった75円のシャーベットアイスの反対は「安心」。溶けない、バラバラにならない、落っこちない、あたたかい。Iさん、月極駐車場で、パンツを脱がずに、次に好きになる人は、こんな気持ちで好きになりたいわね。

 私は昔の私の夢を見た。私の涙は珍しく正確に枕をとらえ、私の使うシャンプーの香りのする枕カバーを濡らしていた。私の頬はそれに触れていて、目が覚めたとき、冷たいなあって思った。

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短編シリーズ 題:いさむくん

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tamami2922.hatenablog.com

 

いさむくん

いさむくん

 

いさむくんは、ラインの中、会社に行く。ラインの中、いさむくんは起き、朝ご飯なんては少なめに、忙がし気に髪を直して、会社へ行く。毎日会社へ行く模様。

 

俺の部署にはおとこしかいないよ。いさむくんは、おのが言葉に少々のウソを混ぜてみた。確かに、いるにはいるのだ。女も。けれども、そいつは34で、その割には営業をやけにしきりたがり、そのくせ営業に煙たがられたり、嫌みを言われれば、めそめそと泣き出しそうな雰囲気がなぜか漂う、いやな女だ。だから、俺は、同僚としてとしてももちろん、友人はおろか、恋人などにしたくないし、セフレにしたって、お相手できない。俺は、仕切りたがりの女より、年増で、そうだな、どうせ私なんてって思いつつ、けれど、どっかで、でも、でも、いいえ、でも、と必死で自分を否定したがっている、けれども、できずにいる、そんな中途半端な………そんな女性がタイプなんだ。

 

いさむくんは、きっとそうなのだろうと私は思う。ラインを読んでいると、そう思われて仕方ない。なんてね。これは虚構の人。私は去年離婚して、先月アパートに引っ越してきたんだ。そういや、まだ先月。ジェイコムにもらったとでも言っていい、このタブレットにラインを入れて、私の携帯にラインを送るという、そんな遊び、いえ、慰謝、慰みをしている。つまりは誰も私を甘やかさなかったから、私は私を甘やかしている。私は私をかわいがっている。自分を傷つけようと必死になる癖を矯めようと。

 

いさむくんの今日のお昼ご飯は焼きそばであった。さすが年下。私はそう思う。そして、セフレたちに一斉にメールをする。今日やっと生理が終わったよ。すると稲妻がぴかっと光った。あれ? と思う間もなく、ゴロゴロと音がする。金曜の夜を花金というらしい。その言葉、昨日ラジオで知りました。あれ? それってウソかも、セフレのうちの誰かに聞いたのかも。何かを思い出す、例えば歌の名前とか、俳優の名前とかそういうこと、それらも、最近は怠りがちだ。どうでもいいや、曜日などもあまり関係のない私に、それらが必要だとはちょっと思えないのだ。花金らしく、私の大勢のセフレたちも、返事を怠りがちだ。いいえ、ごめんなさい。セフレなどいません。それは、いさむくんのウソではない。私のウソだ。ああ、現実とは何だっけ? そう、セフレであればたくさんいる。現実ってなんだっけ? 昨日感じた快感。これだっけ? それとも、今朝起き際に聞いたインターフォン。これだっけ? なんだっけ?

 

今日は訪問看護の相川さんが来る日だ。相川さん。いい苗字だ。けれど下のお名前聞いていいかしら? そう聞くのをいつも忘れる。いつもいつも毎週毎週忘れる。相川なんとかさん。今の私の日常を、焼いてマーガリンを塗った食パンみたいなものに一気に変える名人。つまりはなんだか、私の唯一の生々しいルーティンなのだ。フローリングの傷にやっと気が付く。青葉のように目に新しい。美しい傷。そういえば、今日もご飯を買い忘れた。夜のカロリーはセブンの酎ハイ。油揚げとエリンギは買っておいたから。いさむくんのためにシドに聞きたい。油揚げとエリンギのレシピって? 夕飯はセブンの酎ハイをメインに、油揚げと、エリンギをいただきます。

 

いさむくんは油揚げなら、お味噌汁。エリンギは特に好きではないそう。なんだ、何が好きなの?私はそう聞いてみる。すると答えはオムライスだった。また、ぴかっと外が光った気がするんだけど。やっぱりね。いっそ電気なんて消えちゃえばいい。世の中の電気の元、エネルギーの元、源、何もかもの源、私の源、相川さんの源、つまりはそれって私が現実を失うということなんだけど、それも消えたたっていい。どうしてかというと、人にやさしくしたいのに、とてもとてもやさしい感情でとてもとても人に近づきたいのにそれが、無理みたいに思えるからかもしれない。そして、ついでに、いさむくんの源もみーんな消えちゃえばいい、そう思ったけれど、それもウソ。いいえ、ウソではいのです。確かに一瞬そう思ったのです。絶望よりたちが悪いのかもしない。ああ、飽きちゃった。いいえ、まだまだ。そしてウソだって言ってもいいのだ。ウソなんて、いいえ、ウソもありふれてるんだから、いさむくんみたいにありふれている。いさむくんのたくさんのたくさんの、真黒な空に輝く星の数みたいたくさんのウソみたいで、海でまだ発見されぬ、それでも割とありふれた、光沢の美しい白く輝くパールのようにたくさんのウソみたいに。そう、28歳の会社員。おしゃれが趣味でお酒は飲まない。すごく、たくさんいる。星とパールと全く同じくらい。そして、こんなラインが来た。

 

ねね、

経験人数は?

20から30

いいねえ、そのくらいがいいよね、エッチって

私ね、忘れえぬエッチがあって

酔っぱらいの26歳、夜中にいきなり意気投合、タクシーでホテルへゴー

どこで知り合ったの、なんぱ?

そそ

でね、ホテルに着くまでは黙ってんのね、膝だけ撫でてる

でね、ドア閉めるなり、べろちゅー

いや、ドアしまってないね、せーかくに言えばね

酒の匂い、強引でさあ、ずるずる引っ張られて、私は酔ってなかったけど

で、朝まで途中途中タバコを吸いながら、8回だかんね

聞いたら、職人さんだった

しばらくは、鳶とかね、職人の人見ると、思いだしたな

それもウソだな、いつもいつも頭にその26、いたな

しばし忘れなかった、その人のこと

朝方、私の胸についたキスマーク見てさ、

そうそう

それってさ、私なぜか、彼氏と別れた設定で、ホテル行ったのよねー、いさむくんには彼氏いるってはじめっから言ったのにね

で?

そそ、それでさ、朝、テーブルんとこの狭いソファに一人で座りながら、私の方見てて、その時わたし、ベッドにいたけど、立ち上がって、タバコ吸いながら、あっちみて、お前、男と別れたらさ、俺に連絡よこしなよ、ほら、これがってラインのIDだったか、電話番号だったか、そんなん、ほてるのあんけーと用紙の端っこに書いて、持ってろよだって

26のくせしてね、すごい年下なのにね、それなのにね、上からでね、エッチもね、強引でさ、それがさ、いまだ忘れられない、私のね

忘れえぬえっちっていうの

(年下にいいようにされて、屈服して、上からでさ)

―私はなぜか微笑んでしまった―

そうなんだあ、

いいねー

それいいねー

すごくエロくていいねー

いいなあ、それ

 

そんな会話で一日は終わる。今日もどのセフレとも会っていない。セフレたちのラインを一切ブロックしたというわけだ。それらにはこんな理由がある。どうしてかっていうとそれにも訳があった。とある男性と待ち合わせ、電車に乗りながら、いさむくんへラインをしていて、待ち合わせ場所に着いた瞬間、いくな、と一言、メッセージがやってきたんだ。運悪くその瞬間に待ち合わせた、とある男に手を握られて、歩いて2分のホテルで、めちゃくちゃにされた。気持ちよくない、久しぶりのエッチ。心から、本当に気持ちよくないと思えるエッチ。そいつは料理人で、絶望していた。というのも、小さな個室のある焼き鳥飲み屋の料理人は、しながら、子宮に突きながら、俺は、だって、賃貸に住んでる、そして今の彼女と、結婚する気もないし、俺は付き合う女、どんな女だって、結婚しようと、思えないのだ、それも、なぜだか、わからない、でも、やりたいんだよ、みーちゃん、セックスって大事だろう? 体を動かすこと、俺、嫌いじゃないね、だいたい、欲求不満はからだによくないと僕は思うな、だいたい、俺は、俺のとこは、国民年金だけなんだぜ、それだけしかないんだぜ、と嘆くのだ。厚生年金を払ってないんだ、俺は、厚生年金が、好きだ、安心だ、安心に、つながるんだ、それなのに、それなのに、俺は、厚生年金をはらってないんだぜ、そうなんだぜ、と言いう。つまりは、それは絶望のエッチだった。絶望、絶望、絶望、繰り返される絶望は痛かった。私はやけに大きな厚生年金を払っていない料理人が、子宮に当たるのを感じるたびに、痛い! 痛い! と大声を出す。すると、料理人は、絶望から少し、起き上がり、目の前の女のカラダを見て、目に映る、明るい照明に照らされた、白いシーツの上の布団は丸まり、女のカラダは波打ち、そして、痛がっており、少し控えめな出し入れに変えてみて、けれど絶望の影は、夏休みの終わりのころの影にも似て、とても背が高く、料理人を台風のように飲み込むようで、料理人はいつの間にか、黒の中にいて、体の中央だけにエネルギーが集まっているのを感じるもんだから、つい、真っ暗な闇の中、厚生年金、厚生年金、そう言いながら、エネルギーの出所を、探してしまい、目の前のダッチワイフのような、変な女は、イタイイタイイタイ、と意味の分からぬ、コンビニのベトナム人のような、言葉を影にも似合う、真っ暗闇にも似合う、このトイレの壁に穴が開いていて、紙が丸めて突っ込まれている、そんなやすいラブホテルの絶望にもマッチする、そんなベトナム語を聞きながら、エネルギーは、発射され、失われた。

そして、その日から、いさむくんの奴隷に、私はなったのだ。

 

明らかに、ヤキモチであった。いさむくんの。私は、39歳のもう一人の恋人に、きちんと、他とするな、俺だけとしろ、逃げるな、俺から逃げるな、遊びじゃねーんだよ、そういう人の後をついてこうと思うよ、女だもん。わたし男じゃないもん、そう言うと、39歳は、

つまりなんなんだ

ごめん

その、そいつが本気だからそれがどうだというんだ

本気だからつまりはどうだっていうのか俺は聞いてるんだ

オレハクルシイ、それを心の痛みととらえて何がわるいのよ?

クルシイ、それを汲もうと

女だもん、男と違うもん

そうか、そいうことか

わたし、あの時、松戸って初めて降りた

そうなんだ、初松戸!

また、おいでよ

うん、

いっていいの?

私知ってる人いないよ

いいよー

うん

いくね

必ず行くね

39歳松戸の大人のバツイチの女が好きすぎて優しい大人の方の恋人とやら、ENDROLL。

 

いさむくん、どうして私がエッチが好きかというとね、気持ちいいのもそれはあるよ、でもね、それだけじゃない、仲良くなれるもんね、大事にすれば、気持ちが通じるの、大事にすれば、人ってね、そうじゃない?仲良くしてさ、いつの間にかその人の健康とか、そいうなんての、その人の幸福をいつの間にか願ってる

疲れたと聞けば、お疲れさまと言いたくなるそれが、仲良くなるっていうことの正体だって、私思うもの

エッチがスポーツみたいっていう人、私嫌いなのね。

おれもー

でも、しないで、ほかの人と、

みーちゃん、俺とだけしよう、すごく乱暴にしてあげる

私縛られて、2時間舐められたこともあるー、

じゃあ、みーちゃん、俺が縛るよ

わかった

 

ねえ、いさむくん、本当は彼女いるでしょう?

ねえ、いさむくん、あなた、だれなの?

私のこと、からかってんのよね

若いっていうこと本当に思える

とても、若いんじゃない?

でも28のようなきもするけれど

若い人の間で流行ってる遊びでしょう?

ふざけんな

遊びなら遊びでいいんだよ

ほかのとわかれさせんな

男だからってヤキモチ焼いてみて

あなた、女性よね?

私、一人になっちゃった。

毎日、気持ちよくないから、全然ご飯が食べられない

毎日、気持ちよくなってないから、全然、眠れてないの

怖い夢ばかり見る

いつの間にか、細胞になる夢、細胞って死ぬほどたくさんあるよ、死ぬほどね、そのどれもが私なの、すごくね、すごく、不安なの、すごくね、すごく怖いの、エッチしたくなる、だれでもいいよ、別にさ、私ね、そんなとき、こう思う、人間でいるのも、不安だし、細胞でいるのも不安だな、細胞はちぎれて、意識も、ちぎれてるんだけど、すごく重なるから、すごくね、なんていうか、数がたくさんで、どんどん重なるのね、だから、すごいね、いずれにせよ、不安なの、重なるって、すごく怖いのよ、それならね、って考える

 

いっそ器官になりたいな

器官であれば、すごく集中できて、すごく、安心する気がする

まとまっていて、役割が明確だからなのかな

すごく安心だと思う

私が器官になれたら

 

肉便所ね

みーちゃんが肉便所になりたがってるのとっくに知ってたよ

みーちゃん、俺がさ、みーちゃんを器官にしてあげようか?

その代わりっていうわけでもないけどね、俺もお願いがあって、

それって、みーちゃんに飲んでもらいたい

余さず

こぼさず

のんでもらいたいんだよ

俺の

みーちゃん、おれすき

 

あなた、女でしょう?

いさむくん、あなた、女だね

私の気持ち、わかりすぎるもの

あなた誰?

なんさい?

どこにすんでるの?

 

28歳

足立区

最初にそう言ったよね

そうかに近いねって話したよね

 

俺は会いたい

会いたい

 

みーちゃん、おれ、会いたいよ

 

いさむくん、ざけんな

いつも空けてんじゃん、日中も、夜も

ただのメンヘラの、生保だよ、あたし

外来は月に一回

毎日、目玉焼き食べてる

切るからね

なに?

ちがう

そうではないけど、

ブロックするという意味

 

会いたい

俺、みーちゃんに会いたいよ

 

だから、いつなの?

 

わかった、来週のいつか会おう

 

私はそのあと少し寝て、起きるとき涙を流しているのに気が付いた。とてもとても去年までは急がしかった。月日や季節もよく理解していたような気がする。オムライスや焼きそばや、ナポリタンよりよほど、難易度が高く、時間や手間もかかる食事を作っていた。たまには、梅干しやらっきょうも食べた。仕事も急がしかった。時折、徹夜した。ペットも2匹いた。猫がいて、犬もいた。不思議な生活だった。そういえばインコもいた。猫のトイレの砂を全部捨て、庭に干した。インコのゲージを掃除した。朝と夕暮れ、犬と無心で近所を慌ただしく歩いた。忙しい、にぎやかな毎日で大変だった。いつも起きていて、手を動かしていた。決して幸福と呼びづらかった。けれども忙しく、にぎやかだった。あの頃は忙しかったな、と思ったら、涙は枕をやけに、山が火事になるみたいに濡らしていく。

そう、いさむくんは、会いたいと言ったあと、風邪を引いた。そして、それっきりどこかへ行ってしまった。いさむくんは私のすべてだった。この一か月の。ほかには何もなかった。けれども、明日、これから、ずっと一緒に暮らす人が退院する。グループホームへ行くのだ。洗濯を自分ですることに、もはやおびえている様子。

 

選びたかった。選んでみたかった。ヤキモチを焼く人、言葉遣いが、私好みな人、おしゃれが好きで、美容院に行く男の子。そう、それは、私が生まなかった、男の子。お母さんが嫌いな男の子。彼女が大好きでしょうがない男の子。私のことが、小さなころは大好きで、今は少し嫌いな子。いつか、少し離れたところで、優しい気持ちになる男の子。私を思い出してくれる男の子。私より必ず、長生きする男の子。そう、おしゃれが好きな、ラインにひらがなが多い男の子。必ず、私をたまには思いだしてくれる青年。

 

その青年のお父さんは過去にいた。そう、昔出会ったはずだった水田君。そう、明日グループホームへ行く。23年、入院した精神病院を退院する。明日からはまた、時折、そう、夕方や、夜なんかに、ラインの音が鳴ることもあるかもしれない、このアパートの部屋に。現実は、いつも賑やかだ。いつも細胞だし、いつもいつも、私は、人の幸福をいつの間にか願う。いつもムキになってばかりいた。たいていの人が好きだった、普通の中年女だ。セフレはたくさん、恋人はたくさん。そう、たくさんのペットともすれ違った。結婚した人もいた。心の中だけで好きな人もいた。たくさんの人へのいとしさがあふれる胸の内。零れ落ちそうな胸の内。いさむくん、会えなかったね。雷はショーを終えた。終了。夜は真空となる。分子など一切ない。分子がないから、音を含むものなどない。私からむせ返るようにあふれ出続ける言葉たちも、いまはもう、意味など失う。空気が音を含まないという原理原則からだ。

 

風邪などひかぬよう

お元気で

お幸せに

 

空気は言葉を含まない、ソレハオトヲフクマナイカラッテイウワケ。そんな真空の夜

 

やっぱり会いたい。いさむくん、どうしても乱暴にして、中に出して、色々出して、飲むから。なんでもする。私今言う、いさむくんを起こしたかった。おはようと言いたかった。お疲れさまと言いたかった。お風呂を洗ってお湯の温度を気にしたかった。好きなご飯なら何でも作ってあげたかった。一緒に笑って食べたかった。いつもいつものマンネリなエッチ。終わった後に、私は、もーと笑って思う。少し諦める日常。なんてすばらしい世界。ガムみたいな日常。歯磨きみたいな。いとわない。決して疲れない。いとわなくて疲れないのだから、逃げっこない。そこにいたかった。掃除したい。洗濯したい。冬の朝のきりっとした空気。外を若やいだ青年がスーツを着て笑って私を見ている。そうかと思うと、それは水田さんにも思える。そんなむっちゃくちゃな混濁した心持。これは決して、病気故ではないのでしょう。逢魔が時、黄昏、火灯しごろ、あしたまた、そしていつか、そんな気持ちになる、やむことのない、逢魔が時、連続する火灯し、それは誰にもあるのではと想像するのだ。

 

女ですもの。39歳の元恋人はそう言いました。松戸でそう言っていました。そんな風にうそぶいてみてもいい。

 

さよならなんて言わないよ。

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