新連載2:猫とベイビー
彼女の部屋は目黒の川沿いにあり、こじんまりしているが、新しそうな、きれいなマンションだった。ゆきの部屋にはグレーの毛足の長いカーペットが敷かれていて、その毛足が一糸乱れず同じ方向を向いている。ゆきに差し出されたスリッパを玄関で履いてみても、そのスリッパを履いて出さえ、そのカーペットの上に乗るのはためらわれるようだった。ゆきは
「入ってよ」
と笑顔を見せて言い、ゆきはコーヒーメーカーにスイッチを入れている。俺は恐る恐る入った。
ゆきの部屋はなんていうのか、俺はあまりそういうことに疎くて分からないが、、アンティークの家具が品よく並べられ、ホコリがどこにあるっていうんだっていう風に、掃除されている。それでもベッドサイドに置かれたテーブルに散らかっておかれたアクセサリーを見てやっと俺も安心できたというか、リラックスできた。
「毎日掃除するの?」
と俺が聞くと、
「うん、変かもしれないけど毎朝掃除してる。うちの両親っていうのが、また、私と同じ音大出なんだけど、二人とも教員をしているのね。その頃うちの両親は、どうしたっていうのかな、朝掃除をとことんやらないと、ピアノを弾けなくなるって言い張ってた。子供心に、そんなのおかしいって思ってたの。それなのにね、今私が、その両親の病気を受け継いでいるっていうわけ。そのベッドサイドのテーブルに乱雑にアクセサリーが置かれているでしょう?それがね、私の何に対してだかも分からないけど、そうなの、親っていうわけでもないのよね、何かに対する反抗なのよ。ピアノを弾く人間にとって、ピアノを弾けなくなるっていうのは本当に恐ろしいことなのよ。だから、小さくしか反抗できないっていうわけ」
俺たちは近所のセブンで買ってきた、発泡酒を開け乾杯し、そして俺はポテトチップスの袋を開けた。
するとゆきがキッチンに立ち、何かを炒めはじめた。なんだろうと思う。そして運ばれてきたのは「森の燻製」というウインナーらしい。
「ごめんね。うち包丁がないのよ。だからこれくらいしかできないの。私は両親とはちがって、オーケストラに入りたいって思ってる。だから」
「全然OKだ。とてもうまい。炒め加減がとても絶妙だ。俺はラーメン屋だから、そのくらいは分かるんだ」
と言うと、ゆきはほっとするような笑顔を見せて、
「ありがとう」
と言い、俺は切羽詰まったような性欲に襲われた。
しかしまだウインナーをすべて平らげたわけでもないし、ゆきがさっき冷蔵庫から運んできたベイクドチーズケーキは案外大きい。俺は全部食べてやるさとうそぶいたのが、心の中のつぶやきであったのか、それともゆき相手にそう言ってしまったのか、よく思い出せない。けれど、甘いものが多少苦手だったりもする俺だが、休み休み、ゆきの話を聞きながら食べ勧めていく。
「ねえ、健二君、このチーズケーキは少し手ごわいわよね。残しても全然いいのよ」
けれどその言葉にうっかり乗るわけにはいかない。そう。天の僥倖。今起きるとは予想すらできないんだ。
俺はなんなく平らげた。そう言えばお昼だって食べていなかったんだ。そしてケーキであるからには相当甘いのだろうと予想したチーズケーキが、レモンの香りの強い、あまり甘すぎなかったということも要因だ。俺たちはTSUTAYAで借りてきた「モテき」を見た。その間も俺はポテトチップを食べ続けたほどだ。この「モテき」を選んだのはゆきだが、何故それを選んだのかは分からない。なんとなく。そんなものかもしれないが、俺はついつい「モテき」を深読みしようとしてしまうんだ。
何本目か分からない氷結を飲みながら、俺は少しいつもの、ゆきといるといつも起きてしまう、緊張感が多少ほどけてきた。いつもは質問だったり、うなづいたりだったりしかできなかった俺が、自分の話を始めたんだ。
「そりゃあね、やっぱり除籍よりは中退の方がいいと思ったんだ。履歴書?そんなもののためじゃないさ。親を泣かせたくない、そういう心づかいだった。まあ、いずれにせよ、親は泣いたんだけどさ。今の俺?そうだな、現代の象徴は引きこもりのニートってやつだと思ってる。だけど、引きこもりのニートになってしまったら、女の子と、ゆきと水族館にだって行けないだろう?それは俺の中で受け入れられないものだった。そこで俺は選んだのさ。フリーター。そう、引きこもりのニートほどには先進的ではない、内向的先進性を持った存在だ。俺はそれに甘んじようと思った。なに、俺は24歳。未来はいついかなる時も変化し続けるし、俺の茫漠たる未来も希望に満ち溢れているはずなんだ」
数時間前俺は確かに
「あーあ」
と思っていた。けれど何か俺のこれからの人生はもしかしたら、光り輝き、その茫漠たる未来っていうやつに、なにか、奇跡、違うな、大いなる冒険、そう、そんな感じだ、そんな未来が待っているそんな気持ちにもなってきた。
するとゆきが話終えるちょっと前に、
「ねえ、よかったら、シャワー浴びたら?もう終電もないし」
終電がなくなるということ。それが女子の部屋でまたは己の部屋で、その終電がなくなるというタイミングを迎えるということ。これは男のロマンなんだ。
そのゆきの言葉に促されて、俺は立ち上がった。そして少し足がもつれる。
「大丈夫?飲みすぎたかな」
違う。そうじゃないんだ。男のロマンにうっとりしてしまっていただけなんだ。
ゆきのシャンプーはとてもいい香りだった。俺もこのシャンプーを使おうかなと思ってしまうほどだった。それほどいい香りだった。けれどその「いい香り」の源泉をたどってみると、それはゆきの香りだったからだっていうことに気づいた。ゆきの長い髪はいつもいい香りを漂わせていた。もちろん俺は身体も、いたるところまで、隅々までよく洗った。そして変なことを考えた。デブの女には性格の悪い女が多いと友達が言っていた。そうなのだろうか?では痩せている爪のきれいなゆきは、性格がいいっていうことになるのだろうか?そこまで考えてみて、そうだな、俺たちはお互いのことを分かり合えるほど、長く付き合っちゃいない。俺を選んだのはゆきだったが、その理由を聞くほど肝っ玉は据わっていない俺だ。そんなことを考えていたら、ずいぶん時間が経ってしまい、ゆきに変に思われないだろうかと、ふと思いつき、慌てて風呂から出た。