新連載6:猫とベイビー
俺の気に入っているディーゼルの黄色い腕時計を見ると今3時40分だ。分からない。よくわからない。間に合いそうにない。もし間に合わなかったら、何度も味わっている絶望だが、その時に世界で最も大きな絶望が俺を見舞うのだろう。そして俺は立っていられるのだろか。俺はラーメン屋で働いている。ゆきはつまり、ラーメン屋で働いているから、その特性のみで俺を選んだというのなら、俺は必ずラーメンを作らなくてはならないんだ。でも間に合いそうもない。
「ゆき、俺の当てにしていた、俺の働くラーメン屋の店主の3番弟子の親友のやっているラーメン屋でめんてぼを借りることは諦めざるを得ないんだ。時間的にね。どうすればいいだろう?」
俺は俺の臆病さを隠し、必死で「それは大した事でもないんだけど」と言うように聞こえるよう画策した。
「健二君が「当てがある」って言ったのよ。そういう時に時間を計算しないで、こうして深夜に大通りに立つなんて馬鹿げてる。がっかりよ」
馬鹿げてる。そうだった。俺が中退した大学はバカで有名な大学だった。バカで有名な大学だったのに、ビールを飲みながらギターを弾いていたら、除籍になりそうになって、ギリギリセーフで中退となった。そうなんだ。それ以来してきたことと言えば、男ならだれでもする行為と、ラーメンを作る、それしかやってこなかった。俺はゆきをがっかりさせるほどにバカなんだ。でもその時、徐々に太陽が空を青く染めだしたんだ。俺はよく知らなかったけれど、朝を染める太陽っていうのはオレンジ色ではないだ。でも夕日だって太陽だろう。それは空をオレンジだったり、紫だったり、赤かったりいろんな色に染める。それなのにどうやら朝日ってやつは空を、人に洗濯を誘うような、そんな青に染めるらしい。洗濯っていうやつはたいてい朝やるものだ。
「ゆき。俺は思いついたんだ。俺には縁もゆかりもないラーメン屋だけど、新宿で5時までやっているラーメン屋に行ったことがあるんだ」
「そこでめんてぼを借りるってわけ?」
「そうだ。今なら間に合うと思う。俺は断固として譲らず、必ずめんてぼを借りてみせる」
そして俺は勇み立って
「ヘイ、タクシー!」
と叫んだんだ。するとタクシーが遠くから見え、ゆきも
「タクシーよ!」
と叫び、ゆきはスカートをひらりとさせ、ひらっとガードレールをまたぎ、今度はゆきが
「ヘイ、タクシー!」
と叫んだ。タクシーは固いクッションにぶち当たるように止まり、俺たちを乗せてくれた。
「新宿まで」
俺はそう言ってバッグシートにもたれかかり
「ゆき、奇跡みたいじゃなかったか?奇跡ってあるんだな」
と言うと、ゆきは
「奇跡を起こせる人と、起せない人がいて、起せる人だっていつもいつも奇跡を起こせるわけじゃない。私はその奇跡を起こせる人が奇跡を起こす方法を知っているけど、教えないわ」
俺はその言葉に、ふーんと言って、運転手に告げた。
「とても急いでるんだ」
「じゃあ、高速乗りましょうか?」
「了解だ。そうしてくれ」
俺は早く走っていく景色たちが好きだ。子供のころからそうだった。母親にそういうと、たかが珍来のパートのくせして、俺に、それは「景色が移り変わる」っていう風に表現したほうがいいんだ、と口をとがらせて教えた。でもその時だって、今になったって、俺はタクシーの窓から見える景色は「走っていく」っていう風に見える。そしてタクシーが首都高に乗りグレーの壁しか見えなくなったって、そのグレーの壁は走っているんだ。
そして俺ははっとした。男子たるもの彼女を、いや、ゆきを退屈させてはいけないのだ。そしてゆきの方を見ると、ゆきも車窓の方を向いていた。
「ゆき、何を見てるんだ?」
「何言ってるの。健二君がみているものと一緒よ。グレーの壁を見ているのよ」
「すまない」
「私今後、健二君が謝ったら、何を謝るの?って聞かず、いいのよ、そう答えるようにするわ」
「すまない」
「いいのよ」
「ゆき、あのな、俺はただの時給で働くラーメン屋の従業員で終わることはないんだ」
「そういう話なら、そういうタイミングが来たら聞くわ。多分そういう話って、私自身が聞く用意がなければ聞けない話だって思うの。つまりお腹が空いているときにそういう話って聞く準備ができてないのよ」
「すまない」
「いいのよ」
ピンクフロイドが首都高でイベントでもやっているのだろうか?やけにピンクの豚、オトナ豚もコドモ豚も、首都高を疾駆している。
「豚ね」
ゆきが言う。
「ああ」
俺も言う。
「豚ですねえ」
運転手も言う。
俺たちが乗っているタクシーは透明で運転手もゆきも俺も透明な人間になってしまったような気がする。その脇を豚が真剣な顔をして走っている。ゆきは豚を見ながら言う。
「風が強いか、それほどでもないのかっていうのは、風にはためく洗濯物や、飛ばされた帽子によって表現されるわ。そうでしょう?」
「ああ、確かにそうですよねえ」
運転手が答えた。俺はゆきの独り言に近い、風の表現法に対する答えとしては、この運転手の答え方は大げさなような気がする。この運転手はもしかしたら、もう、このゆきに惚れているんじゃないだろうか、そう思う。そして俺は徹底的にこの運転手を無視することに決めた。
車は止まった。警察官が警棒を回しながら近寄り、運転手が窓を開けると、
「いや、10キロ先で豚を乗せたトレーラーが横転しちゃってねえ、しばらく通行止めなんだ。すまないね」
俺の心は「どうして謝るの?」でもないし、「いいのよ」でもないんだ。馬鹿野郎。そんな気持ちなんだ。どうして最初っから最後まで俺たちの出会いと俺のゆきへの焦るような、そんな切羽詰まった思いを、何かが阻むんだ?もっとスムーズであっていいはずだ。その豚たちがトレーラーから逃げ出した豚たちではなく、ピンクフロイドの余興であったなら、俺はここまで焦らなかったかもしれないんだ。
ゆきは後部座席の左側に座っていた。そのゆきの座る窓に、大きな豚が、鼻っ面を突き付け、ブヒブヒと鳴いている。そして運転手がエンジンを入れると同時に、去っていった。
「豚も美人には弱いのかな?」
馬鹿野郎、俺のゆきを簡単に「美人」だなんて言うんじゃねえ。そりゃ美人だろうが。
俺はあくまでも運転手の言葉を無視した。窓にははっきりとさっきの豚の鼻の跡がついている。
「やあだあ、なあに、今の豚ちゃん。かわいい!飼えるものなら、飼ってみたいなあ」
とゆきが言う。
そりゃそうかも知れない。俺は心の内で独り言つ。あの豚野郎、きっとオスなんだろう。多分俺よりはるかに上回る、ビッグマグナムと、大きく垂れ下がる玉を持っているんだろう。俺の女、俺のゆきに簡単に、そして直截に色目を使いやがって。しかもゆきに、「飼いたい」なんて言われやがって。俺はそんな最上級の言葉で表現されたあの豚が俺は猛烈に羨ましかったんだ。つまり飼われたいと切望しているのは、あんな豚野郎ではなく、俺なんだ。