今考え中だ

こじらせ中年って多いですよね。恋愛市場引退したいような、それでいて、私だってまだまだ的な。「まだまだ、ときめいていたいっ」っていう完璧リア充も多いけど、一方で、わたしなんて、いやー、もう、でも?みたいな人も多いと思うんです。つまらない日常からどうやって目をそらしてこう?というヒントが提示できたらという作品を書いていきたいと思っています。また、考えすぎて頭がバカとか変態になっていしまった方へ向けてのメッセージも込めてます。若い人にも読んでいいただきたい!死ぬからさぁ。

また新連載7:卒女生徒

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そうそんなことを考えながらムートンコートを着たわたしを誰もがステキ女子だと思っているだろうと思いながら通勤した。ステキ女子? ばかばかしい。わたしはただの冬ごもりをする前の、やけに鮭ばっかり食べているクマにしか過ぎないのだ。そう、昨日わたしだって鮭を食べた。ムートンコートっていうのは四五キロ未満の女子しか着るべきではないっていうことがやっとわかった。

「うん。クマさんみたいだけどね、これってとってもあったかいの。わたし寒がりだから」やっとそう言った。そして看護師さんたちとも共同のロッカールームでムートンのコートをハンガーにかけ、ロッカーにつるし、白いブラウスと黒いスカートを身につけた。別にカットソーじゃなくてよかった。バッグにグレーのカーディガンなんて入れてこなくてもよかった。カーディガンなら、薄い黒のカーディガンが支給されているのだから。わたしはいろんなところで間違った。行くべきじゃない方へ道を曲がった。海は深かった。わたしは竜宮城へ行くべきだった。今からでも遅くないのかもしれない。竜宮城には傷などないのだ。

 お昼休憩、看護師さんたちはおもいおもいのお財布を握ってコンビニへ向かっている。わたしも今日はお弁当を持ってきていないことを思い出して、慌ててその後へ続く。わたしはカルビ弁当を買った。そして休憩室で看護師さんたちと一緒にお昼を食べる。

「いつもちゃんとしてるよね。サクラさんって」

「うん。一人暮らしなのに、お弁当とか持ってきてすごいなっていつも思う」

「いいお嫁さんになれるよね」

わたしよりはるかに年が下の看護師さんが言う。

「みなさん、イヴはどう過ごすの? やっぱり彼氏とかいるんでしょ?」

「内緒―――」

と口々に言う。そして

「サクラさんは?」

と聞かれ、

「わたしはエンジニアブーツを履いているわたしの家の最寄り駅にある大学に通っている大学院生と過ごすの」

最近はどうもウソを迫られることばかりだなと思う。

「やだ、年下の大学院生? サクラさんすごーい。でもそういうサラダだけでもって持ててくるような、そんな家庭的な部分って男性にとっては絶対好印象かも」

「ナンパから始まったの。わたしその大学院生にナンパされたの」

 

 看護師さんたちが出ていった後の休憩室で昼寝をしようとして、ふと思いつき、ヒロコにラインをした。

「マンションの資料請求っていうけど、そういうの電話かかってきたり、家に不動産屋が来たりしないの?」

そしてしばらくは連絡もないだろうと、昼寝に戻った。久しぶりに食べたカルビ弁当はおいしかったなって思いながら。

 病院が閉まるのは午後六時。その後雑務をこなし、帰りは七時近くなる。わたしは着てきたムートンのコートを着て、院長先生に「お疲れ様です」と声をかけ、病院を出ようとした。するとちょうど院長の奥さんが外から帰ってきて、

「あなた、外はすごく寒いわよ。そのコート、正解だわ」

と言った。朝、獣とたとえた奥さんだ。空に国境なんて書いてない。どこに住もうと誰でも自由でありたい。故郷へ帰りたい人がいれば帰るといい。誰にもひねこびた、悪い心などなくなってしまえばいい。誰しも悪気なんて持たない方がいい。隣の人の手を思い切って握ってみたい。冷たいのか暖かいのか、確かめるために。心が揺れるそういうこと。人間には時々それが訪れる。

 

部屋に着くなり、見ていたみたいにヒロコから電話が鳴る。慌てて出てしまった。

「なあに? あんたもマンション買う気なの?」

「うーん。買えるもんなのかなあって思っただけだったんだけど」

メールやラインをするのがわたし、電話をかけてくるのはヒロコだ。

「買えるんじゃない? 別に」

「そうなのかな。わたしの人生にそういうの、なんかさ、ノープランだったから」

「結婚をしてからって考えてたの?」

「ううん。そういうのでもないの。ただ人生のうち、実家は別にしても、この家はわたしの家っていうことがね、あるなんて想像もしなかったから」

「資料くらいなんとなく見てみたら?」

「そこ。だから、電話かかってきたり、訪問されたら困るし」

「訪問はないわよ。ただモデルルームとか行ったり、まあ、資料請求だけでも、電話がかかってくることもあるけどね」

「それにどう答えりゃいいわけなの?」

「つまり、『検討しましたが、今回は見送ります』って言えばいいのよ」

「ヒロコの方はどうなってるの?」

「うん。家はだいたい決まったの。国分寺タワーマンション。最上階から二階め」

「ヒロコがマンションを持てるなら、私も持てるのかな? 変な言い方だけど」

「進もうと思わなければ、ずっとその地点で止まってるでしょう?」

「そっか。ありがとう。わたしお風呂入るから」

「イヴ、忘れてないよね」

「検討中よ」

わたしはお風呂に入るわけでもなく、パソコンを開いた。そして近隣の地名と「新築マンション」と入れて検索した。初めのうちは「仕様」とか「間取り」とか「近隣」とか「共有スペース」とかいちいち見ていたけれど、それもめんどくさくなって、あらゆる物件にチェックを入れて、一気に資料請求をかけたのは越谷だった。つまりそのマンションの立地によっては職場にとても近くなる可能性があるのだ。3980万円とか4980万円とか、2980万円とか、そういう数字が何を意味しているのかもわからなかった。わたしはその2980万円という数字を見ても、わたしには買えないだろうな、と思ったし、買えるのかなとも思った。とにかく皆目わからなかった。その2980万を割り算すらしなかった。面倒くさかったからだ。そしてこれは一種の遊びなのだと思おうとした。でもなにかそれはとても生々しい遊びだった。性的な遊びにも似ていた。秘密裏に生々しく、快感をむさぼる遊び。そこにはいつも大人から隠れなければならないというリスクが伴う。

 そしてエアコンをつけて、風呂の掃除をした。もう〇字を過ぎている。冬だし、どうしても風呂に入らなければならないっていうわけでもない。そんな風に風呂を端折ってしまおうかとも思う。けれどもし、今日風呂に入らなかったら? 明日も明後日も入らないだろう。髪の毛は油臭く、ふけも浮く。それでも入らなくなるだろう。そしてトイレ掃除だってしなくなるだろう。洗濯も掃除も。一回の怠惰を味わえばそれに味をしめて、怠惰であることを貪る。怠惰に耽溺する。それをわたしは子供のころからの勘で知っていた。それはわたしの人生にとてもありうることで、それはマンション購入よりリアリティーがあるのだ。小さい頃に当たり前だった出来事、お風呂に入るとかシャンプーをするとか、歯磨きをするとか、部屋の掃除をする、脱いだパジャマを畳む。それをある日人は一つだけ端折る。するとその人は突然かもしれないし、ゆっくりかもしれない。けれどそうやって、人は精神病院に入るのだ。

 イヴは二日後だ。翌日の朝少しだけ遅く起きて、すぐにそう思った。ベッドから起き上がるとすぐに目の入るところにすすけた新聞紙のような紙でできているカレンダーがはってあるせいかもしれない。そう、起きた瞬間に思ったのだ。イヴは二日後。

 そしてお弁当箱に卵焼きとウインナーを入れてお弁当をつくった。少しだけ引っかかっているムートンのコートをまた着る。「クマみたい」とか「むくむくだね」などと言われて、今日着ていかなかったら、むしろ恥ずかしいって思ったのだ。そして職場に着いてももう誰も何も言わなかった。コートにもコートを着ているわたしの様にも何も誰も言わなかった。そして風が医院の扉にぶつかっていくような音をたてる。揺らす。奥さんはまた、

「それって、そのコートって本当に暖かそうね」

と言っただけだった。


 

また新連載6:卒女生徒

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渋谷の貸し切りのレストラン。クリスマスパーティー。なにかを飲んだり食べたりしたら、パウダールームでコンパクトを開き、口紅を直す。それを羨ましいと思う。クリスマスを主張しすぎない、でもクリスマス仕様のマフラーを巻いてセブンで黒糖饅頭を買う私。それはやっぱり、美しいのだろうと思う。飾られている花、その花の固い葉に触れたら、手に傷がつくかもしれない。そんな生きていることを、わたしにたいしてビビッドに主張する花や葉がたくさんあるのかもしれない。それはわたしの手を傷つけ、血を出させるのだから、わたしにもわたし自身の生を思い知らさせるだろう。けれど、やっぱり参加したくない。それは絶対だ。初めて会った人と、親しく話す。そんなのウソばっかりだ。礼儀とかマナーっていうウソ。それを悪いとも思わない。けれどそんなウソのために、ナインのパンプスを履いて、ムートンのコートを着て渋谷まで行こうなんて思わない。それはとてもつまらないからだ。

 あ、と思って干した洗濯物を取り込んだ。かごに入れられた洗濯物をベッドにぶちまける。そしてベッドに正座してひとつひとつ畳む。わたしはこの行為を特に大切に思っている。もちろん洗濯もそうなんだけど、洗濯物を一つひとつ大切に畳むっていう行為は、ほかの誰にもやってもらいたくない家事だ。それを奪われたくない。心は冬のバスの空調とは違って、どんどんクールになっていって、だからって寒いわけじゃない。機嫌だってそのときはとてもいい。そして「僕らは薄着で笑っちゃう」をリフレインする。出た。またイマジン。この部屋でいい。この部屋のままでいいから、そのベッドの下のムートンの敷物の上に、誰かがくつろいで座って、その足がスチールの小さなテーブルでホットコーヒーでも飲んでいてほしい。あの青年ではないのだろう。多分。それは今日一日考えたくなかった、思い出したくなかった昨日の思い出だ。そう、昨日だし、もう思い出だ。今日一日が終る。そうなんとなく感じる。そうしたらその青年へのスウィートなアップルパイみたいな思いは、「昨日の思い出」に変化した。

 

 夜大きめのバッグを選び、その中にウールのカーディガンを入れた。明日、カットソー一枚でムートンコートを着て職場である病院に通勤しようと思ったのだ。なんとなく、少し、髪の毛が長くて、つやつやした、一つにまとめてもおくれ毛が出る、そんな女性のように思える。そういう女性はたいてい、コンパクトなバッグが、そうでなければ大きなバッグを持つはずだ。それもあってその大きなコットンのバッグを選んだ。もちろんそれにカーディガンを入れることが一番の大前提だ。

 夕飯はお昼のおにぎりを作った時に余った鮭と、納豆とナスの味噌汁だった。お風呂上り、体重計に上る。この体重計は5年位前、フランフランで買ったものだ。やはり49キロ。何事もなかったように、この休日がなかったように、デジタルの数字は49キロで動かない。そう、何もなかった。何も。わたしは髪の毛をターバンで巻きながら、お手入れをする。そしてターバンを外す頃には髪の毛はだいたい乾いている。おくれ毛なんてあり得ない。そんなに髪は長くない。わたしのアリバイは立証されない。ヒロコからの電話は携帯だった。誰とも会わず、行ったのはおしろいと口紅だけをつけて行ったセブンだけだ。そう、そのセブンで黒糖饅頭を二つ買った。やかんがやかましくて腹が立った。それだけだった。捨ててやるって思ったほどだった。普通だった。そう、普通だった。何も思わなかった。そう二つの思い出だけだ。一つは馬の階段。一つはエンジニアブーツを履いている青年。何も考えなかった。ただ洗濯したシーツや枕カバーがいい香りだって思ったことくらいだ。寝ようとも考えなかった。そうやって眠った。

 起きて顔を洗う。温めた牛乳がかけられたフルーツグラノーラを食べる。そして着替えてメイクをする。そういえば最近よく、「妙だな」って思うことがある。わたしはわたしの肌は汚いって思ってる。けれど人にはきれいな肌って言われることが多い。あの毒舌なヒロコでさえそう言う。いつも「?」とおかしいなって思う。

パジャマは畳んでベッドの上に置くのがいつもの習慣だ。トイレ掃除をする。これは母からの遺伝だ。そう、遺伝子まで組み込まれているトイレ掃除。トイレ掃除への思いはとても強迫的で、それを一日の始まりに行わないと、不安に襲われる。なにか悪いことが起きるかもしない。カードが入った財布をすられるかもしれないし、このアパートが火事になるかもしれない。化粧ポーチを丸ごと、どこかに置き忘れるかもしれない。今持っている少しの情熱が乾いてしまうかもしれない。だからトイレ掃除をする。なにかに憑依されたまま。

 今日はお弁当を作らなかった。材料があまりなかったからだ。ミートボールもなかったし、唐揚げの冷凍したものは、ストックが切れていた。特に入れるような、冷凍食品もなかったし、卵もうっかり切らしていた。昨日の残りものっていうようなものもなかった。ただブロッコリーを茹でて、冷凍のコーンを解凍し、レタスを千切って、タッパーに詰め、オリーブオイルをかけてサラダだけは持った。朱色が所々剥げ、錆びた階段をカンカンカンと降りる。その音をいつも聞く。カンカンカンカン。その音は確かに踏切の警報機の音と似ているけど、決してそんな、むしろ死にたくなるような、不安をあおる音じゃない。ただその音は時にはとても凍てついていて、「生活」っていうことの確かさと厳しさをわたしに教える。

わたしの部屋の中年の男性が住む部屋じゃない方、角部屋の方に住んでいた小さな子供がいる新婚さんは妙に薄かった。その子供さんも薄いって思った。よくガス屋とか水道、電気の集金が訪れていたけれど、いつしか電気がつかなくなった。夜逃げした。別に夜逃げをしたから薄いわけじゃない。薄いから夜逃げしかなかったのだろうと、わたしはその時妙に納得したのだ。そしてこれは一階だが、赤ちゃんのいる外人さんのカップルも夜逃げした。夜逃げする直前、なにか大騒ぎをしていた。大声と大きな音の音楽が聞こえた。そしてその日が過ぎると、突然静かになって、しばらくすると電気がつかなくなった。

 そして考えてみる。この二十三万のムートンコートとナインのパンプスを履いているわたしにこの朱色の階段は似合ってないんじゃないかって。もしかしたらその恰好に似合うのは、自動で開くエントランスや、それに続くロビー、オートロックのドア、エレベーターなんじゃないかって。そうだな、似合うとか似合わないとかそういう問題じゃないかもしれない。わたしの身の丈に合っている、そういうのが、そういうマンションだって気もしてくる。でもわたしはそれを打ち消した。夢みたいなこと。寝てるときに見る夢みたいなこと。クリスマスが近づいたっていうだけで浮かれているだけのわたし。きっとそうだって自分に言う。なにかすべてを納得できないまま、駅へ向かう。土が濡れていた。

 職場に着き、「おはようございます」と言いながら病院に入ると、院長が

「やあ、クマが入って来たのかと思ったよ」

と言って笑う。三人の看護師さんたちも、わー、むくむくだね。かわいいと口々に言う。

「大きな獣みたいだね」

それを言ったのは院長の奥さんだった。悪気はないのだろう。誰にも悪気なんてないのだだろう。わたしの身の丈に合った一人暮らしをしながら、一生懸命働いて得たボーナスで買ったこのムートンコート。一昨日だ。もう完全に思い出でしかないのだろう、その時に出会ったエンジニアブーツを履いている青年だって、心の内でわたしをなにかの動物にたとえながらわたしを見ていたのだろう。オートロックのマンション? 身の丈に合ったマンション? そんなことをさっき考えた気がする。さっきとは言っても一時間以内三〇分以上だ。

また新連載5:卒女生徒

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そこまで思ったら、なんかシラッとした気分になった。そうね、確かにここまで育ったのはお父さんとお母さんのおかげ。それもある。でも途中からはお父さんお母さんに育てられながらも、たくさんの人や物ものに育ててもらった気がする。死んでしまおうかって思ったときに見たプロレスの名勝負とか。そう、そういうもの。死んでられない。生きてやる、その時はそう思ったような気もする。ありがとう、みなさん。ありがとう、弱さを見せてくれた人や物。それはわたしの、もしかしたらある「やさしさ」を育ててくれました。おしめだってありがとう。おまるだってありがとう。ご飯だってありがとう。あーーーー、つまらない。そういうことを考えてつまらないって思うの、どうかって思う。感謝の羅列をしているときにね。ほんとどうかと思う。だけどわたしは無性につまらなくなって、えい、コンビニへ行こうと思った。ひとつ理由だってある。今日のわたしは圧倒的に野菜が足りないと思ったのだ。野菜不足は便秘と肌荒れを女子に起こします。野菜ジュース。そんなものは私固有の冷蔵庫には入っていない。だからコンビニまで行こうと思ったのだ。鏡を見る。人相が悪いってまでは思わないけれど、確かに今、面白くもなさそうに、憮然と映っている鏡の中のわたしは確かに愛想なしだ。わたしは薄くおしろいを塗って、口紅をつけた。そして部屋着のスウェットのワンピースにピーコートを着て、出ていこうとしたとき、思いついて白地に赤の緑のチェックのマフラーをぐるぐる巻いた。それは主張しすぎないけれど、「メリークリスマス」っていうわけだ。みなさんメリークリスマス。わたしはイヴは男性と銀座で食事をして、その後その男性のお宅にお泊りっていうわけ。なんて、そんなのあるはずない。あるはずないんだ。きっとその日は誰に言うわけでもないまま、ミンクピンクの7分袖のニットを着てミニスカートを履いて、もちろん、ムートンのコートとパンプスを履いて、仕事をして、帰り路、売れ残って安くなったチキンと、ショートケーキを買って、部屋で一人でクリスマスっていうわけになるだろう。

 わたしはセブンで考えてしまった。確かに野菜ジュースを買いに来たのだから、かごには「1日分の野菜」は入っている。けれどなにか甘いものが欲しかった。とてもとても甘いもの。そう、ショートケーキでもないし、モンブランでもない。もちろん杏仁豆腐でもない。わたしは様々悩んだ結果、黒糖饅頭を2つ買った。

 そして家に帰るとお湯を沸かした。どうしてわたしがつまらないのか、今日一日、緊張して唾を何回も飲み込んだのかわかってる。お湯が沸いたピーッと言うやかんがやかましい。1Kなのに立ってその火を止めようとも思わない。だって今、考えないようにしていたこと、それを考えるのをやめようと、止めようとして買ってきた黒糖饅頭を食べている最中、あーーー、このピーっていう音うるさい。本当にいつもいつもわたしの人生、愛想がよくて、みんなに好かれる、愛されるわたしの人生を邪魔してきたのはこの音だ。だれかが手を差し伸べる。その瞬間にまるで警報機のように、このやかんはピーッと鳴りだす。そしてその手はひっこめられ、もう二度と差し伸べられないし、その手を握るチャンスを失う。このとても甘い塊を、十分に味わって、その微細な黒糖さえかぎ分けて、ゆっくりと味わうべきこの黒糖饅頭を味わう邪魔、これを邪魔するのは他でもない、このやかんだ。捨ててしまいたい。今わかっていること。それはあの青年を思い出したくなかったっていうことだ。クリスマスは銀座で男性とディナーを食べ、その男性の高級マンション、そう、ヒロコの家にあったような大きな威張ったテレビやオーディオ機器がたくさんある、そんな男性の家へのお泊り、そんな想像で甘い黒糖饅頭を今電話がかかってきたら、しゃべれないから、出られないっていう感じで、口いっぱいにほおばって、甘くて甘い塊で、それをほおばって、死にいざなわれる、そんな感覚を「メリークリスマス!」っていう感じでいざなわれ、それでいい、そうそれでいいと思いたかったのに、やかんが邪魔をした。

 わたしはやっとガスを止めた。ガラスの急須にお茶っぱを入れる。ティーバックのお茶はわたしの子供の頃の限定のお茶だ。新幹線で飲んだ。名古屋に行く途中だった。動物園と植物園に行った。どうしても忘れられない出来事があった。わたしが家族に、

「どうして、この階段は一段一段が広く作られているか知ってる?」

と聞いた。みなわからないと言う。

「あのね、これは、馬がこの階段をね、登ったり下りたりするようにね、広くできてるっていうわけなの」

って説明したら、お母さんにもお父さんにも、おい、お前よくそんなこと知ってるなって言われて、妹には

「お姉ちゃんて、すごーい」

と言われたのだ。そう階段が広いのは馬のため。そうよ。階段が広いのは馬のためなんだから。

 お茶に口をつけたら、とても飲めないほど熱い。あつって声をあげて、泣き出した。あの名古屋の思い出。それと青年の顔が二重写しのように見える。それらが涙で絵の具をとかしたような水にも見える。明るくて様々な色々。何もかもにじんでいる。死へのいざない。それはカラフルな色々だ。なにをしようかなって考える。そしてしたいこともすべきことも見つからない。カラフルだ。様々な色だ。

 その時やっと電話が鳴った。お母さんかなって思ったら、ヒロコだった。

「どうしたの? わたし今ゆっくりとお茶を飲んでる最中なんだけど」

「電話に出ていきなりそれじゃ、愛想がないだけじゃない、彼氏だって作れないわよ」

「妙に威張ってるテレビみたいな言い方ね。それって」

「威張ってるテレビ? ふうん」

「用件は? 端的に言ってほしいけど」

「あんたって本当に相変わらずね。まあ、クリスマス、予定ないでしょ」

「クリスマス、予定ないでしょ、っていうあなたの方が、相変わらずだって思うけど」

「でも、ないんでしょ?」

「まあ、ないけど」

「それなら、渋谷にあるレストランを借り切って、旦那の友達がパーティーを開くことになってね。それでご友人もよかったら一緒にっていうわけ。端的でしょ?」

「いつもとても長ったらしい、あなたにしては端的だってけど、断るわ」

「どうして?」

「わたしはTシャツを着て黒いスキニーを履いて、エンジニアブーツを履いているような、そんな人がタイプなの。別に懸命にダイエットをして懸命におしゃれをして、そんなパーティーに出席しようなんて思えないわ」

「じゃあ、あなたはずっと独身よ」

「どうして?」

「だってあなたって人は光る汗を追い求めているんでしょ?」

「まあ、それに近いけど」

「その汗をかく人は、あなたを探してはいないし、探していたとしても、その汗は近くに寄ればむっとするほど、汗臭いのよ。それは間違いなくね」

「わたしにとって、それはギラギラよ。わたしが求めているのはね、キラキラなの」

「キラキラした汗をかく人は更にキラキラしたものを探してる。自分から、最初っから、パーティーに参加しないのなら、その人に出会う確率は恐ろしく0に近いのよ」

「ごめん。でもパーティーには本当に参加したくないな。だってわたし今49キロよ。大きな図体をしていい歳の独身女がパーティーに参加って、なんだかみじめだって、みじめな結果しか待ってないって、そんな気がする」

「まあ、いいわ。当日まで考えて。当日でも遅くないから」

 

また新連載4:卒女生徒

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わたしは

「いつ?」

と尋ねる。意味がよくわからない質問かもしれない。けれど風のたてるビュービューという音のせいなのか、波のどすんどすんとテトラポットにぶつかる音のせいなのか、青年にはわたしの言葉が届かないみたいだ。そして今度は

「どこから?」

と尋ねる。これも意味がよくわからない質問だ。そして前回と同じく青年にその言葉は届かないみたいだ。

 温い温度と湿気。波がぶつかる大きな音。風が行き止まりにあったようなとぐろを巻くようなうねり。その時高波が来た。一瞬のことだった。波は青年もわたしだってさらう。海中に沈んでいく。鼻と口からブクブクと泡が出る。青年も見当たらない。そしてまた上昇する。すると白い汚れた、所々のペンキが剥げた船が浮かんでいる。わたしはそのヘリにしがみつく。見ると横に青年もしがみついている。船の中ではパーティーが行われていた。小さい子供もいるし、その子供のお母さんなのか、大ぶりのピアスをつけた若い女性もいる。そしてその人たちが囲む中心には火がたかれ、魚や反り返ったイカが焼かれている。わたしは「にっ」と微笑み、

「お邪魔しました!」

と言って手を離す。その瞬間目を青年に向ける。すると青年もわたしと同じく、

「お邪魔しました!」

と言って手を離したみたいだ。わたしはわたしの間違いに気がつく。青年を巻き込むべきではなかった。それは私固有の「お邪魔しました!」であったはずだ。それなのに青年は奇妙にわたしに従順だった。海中の中で揺られたり、青年に近づこうとしたり、自由になろうとしたり、ざっと押し寄せる、海上の波に押されるようにして、青年と近づいた。そして青年が口をパクパクさせて何かを言ったようだ。わたしにはそれが何を言っているのかわかる。

「もう、竜宮城へ、行こう」

わたしもうなずいてみせる。そして青年は視界から消えた。青年は一人で天にあるのか底にあるのか、わたしにはわからない、竜宮城の門を叩いたのだろう。また私だけになった。一人ぼっちになった。でもそれはわたしだけが助かったっていうことかもしれなかった。ブクブクブクという泡の音がいつまでもいつまでも聞こえる。

 

 冬だから洗濯物も少ない。今日洗ったのは、バスタオルとシーツ、枕カバーと下着類だ。そして干してしまってから、遅い朝食を食べる。フルーツグラノーラ。ダイエットのためだ。最近は温めた牛乳をかけている。まあ、悪くはないけど、特に美味しいとも思わない。というか多分これに飽きている。今日はお隣さんに出遅れた。お隣の一人暮らしの中年の男性は必ず日曜の朝、掃除機をかけるのだ。そして出遅れたものの慌てて掃除機をかけだした、わたしの持っている掃除機の音と、お隣さんの掃除機の音がなんだかハモるような気がして愉快だ。そしてお隣さんの掃除機の音に、「夢じゃないかもしれない!」とか「ちがーう、君一人じゃない」と歌ってみる。いいぞ。いい調子だ。それなのにお隣さんは先に掃除機のスイッチをオフにしてしまう。なんだ、つまらない。ここからがいいところ。そう清志郎のイマジンでした。そして食器を洗う。それを済ませてしまえば特にやることはない。家にはテレビがない。なんだか若い頃からテレビっていうものに馴染めなかった。テレビっていうのはお風呂に入るみたいに、ぼんやりと見るものに思える。けれどわたしはどうしても、ぼんやりすることができないから、自然意識はテレビから離れてしまう。でもこんな時思う。テレビをつけてベッドに横になる。ぼんやりとして、ぼんやりとうたた寝をする。そういうのっていいのかなって。でもわたしはきっとテレビを買わないだろうとも思う。そういえばヒロコの家のテレビはバカでかかったなあって思う。ああいうの何インチとか言うのだろう? やたらデカかった。それだけでとても威張っているテレビだった。

 することがないっていうことは人にとても緊張を与えるものだ。今わたしもそれにとらわれつつある。パソコンでYouTubeを開こうとも思わないし、本を読もうとも思えない。そんなときはとても孤独を感じる。孤独なんて当たり前だと思ってた。それが誰もがだって。けれど今感じてる孤独は本物だって自信がある。電話も鳴らず、電話をかけようとも思わない孤独。つながりたい。けれどそのための手段は何もかも禁じられている。それは、わたしが邪魔だからだ。それはとってもじわっと湧いてくる孤独だ。することがない。それは本当の孤独だって、だいぶ前に気がついた。気がついたときはびっくりした。あ、今、わたし孤独なんだっていう発見をしたような気がした。じわじわと肩が凝ってきて、吐き気がし、唾を何回も飲み込む。音楽を聴こうと思って止めた。何度も読んだ夏目漱石の行人をパラパラとめくる。拾い読み。そして思った。

「わたし、もう行かなくちゃ」

「いいよ、君一人のオーディエンスを失うことくらい」

「だってきつくわたしの手を握っているのはあなたよ?」

ふふふ。そんなことを想像した。つまりミュージシャンにしても作家にしても、孤独なさみしがり屋だっていうことだ。さみしんぼう。手をやすやすと離してはくれない。なんだかんだ言って手を離さない。なんだ。オーディエンスであるわたしたちの方が、肩が凝って何回も唾を飲み込むっていう作業を、なににも誰にも、道具も使わず、繰り返して耐えている。あ、そうか。それがテレビの正体なんだ。まぎらわすっていうツール。「まぎらわす」を買おうかなってちょっと思って、やっぱりやめておこうと思う。映画やドラマを見る気もあんまり起きない。わたしはどうやらキラキラしたものが好きみたいだ。ダイアモンドでもスワロフスキーでもない、星空や汗のきらめき。

 きゅうりと茗荷の簡単なおしんこ。これはわたしの大好物で、あとは鮭を焼いておにぎりを作った。日曜日、寝坊してずれてしまっている、お昼ごはん。もう2時半だ。それらを食べてしまうと、ムートンの敷物にピンクのフクロウの絵が描かれたクッションを枕に横になる。労働の反対がくつろぎ。そうだとしたら今日は労働していないからこんなに緊張しているのかな? いや、月曜から土曜日まで働いた。土曜は半日だけれど。土曜はなぜなら午前しか診療がないからだ。その反対の日曜日。そういうわけかな?

 ドレスとか大ぶりな宝石のイヤリングとか、羽がたっぷりついたハットとか、大きな船とか、そういうの、わたしの人生に関係がないのかな? やっぱりわたしが愛想なしのせいなのかな? そう思ったとき、わたしの想像力の貧困さ、つまり船から出られない想像力に、自分で笑いだしてしまった。そしてそのわたしの「あはは」がお隣にも聞こえたかな? テレビをつけている様子もないわたしが、「あはは」って笑ったこと。それがお隣にも聞こえたかなって思ったら、また大笑いしてしまった。愛想がない女が馬鹿笑い。これは結構面白い。葦ってやつは考えます。葦ってやつは悩みます。葦ってやつはダイエットをします。そして時々バカみたいに笑います。けれど、苦しんでいます。大人になろうと。大人であっても。そうやって朝ごはんにフルーツグラノーラを食べています。今ね、わたし49キロ。いつかね、45キロを切ってみたいの。でも48キロに一瞬なって、大喜びした後に、次の日は49キロに戻っていたりする。すごくつまんない。ほんっとうにつまらないって思う。自分がつまらない病かって思ったりするほどつまらない。あーーーつまらない。それってなんか自分が点のようなありのような存在になってしまったようなつまらなさだ。ああ、お父さん、お母さん、わたしは49キロまで育ちました。育ててくれてありがとう。

 

また新連載3:卒女生徒

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「まだ、アップルパイもホットココアも半分以上残ってる。もうちょっといてくれよ」

わたしは今度は「いてくれよ」と言われた。そう言われた。「いてくれよ」、と。わたしはその言葉に打たれた。深い安堵を感じた。そして座り、アップルパイを手に取った。まだ熱いくらいだ。そしてとうとう馬鹿笑いをしてしまって、

「あのね、このさ、ムートンのコートだけど、フェイクじゃないの。リアルなのよ。つまり羊一頭は死んだかもしれないわね。ご愁傷様だわ。気の毒にね。まあ、それはそれとして、今日買ったの。念願だったんだ。何年も前からそのブランドはムートンコートを出していて、毎年試着して、そのね、試着するのって、店内じゃない? そうするとね、すっごく暑いの。暑いくらいなの。そしたらね、特別北国で育ったわけでもない、長野県人でもないわたしにしたらね、ああ、寒い冬、これを着て通勤できたらいいなあって、あったかいだろうなあって、そう思ってたわけ。それでね、今日買ったの」

「へー、高いんだろう、そういうのって」

「あなたのエンジニアブーツくらいじゃないかしら?」

「これはね、大分年上の兄貴からのおさがりなんだ。毎年毎年、帰省するたびに履いてきた。俺は四年位、いいなあ、それ、いいなあって言い続けた。そしたら去年やっともらえた。お金はかかってないよ。俺は大学院に行ってる。この近所の大学だ。わかるだろう? そう、たいした大学でもない。そう、たいした大学でもない大学の大学院生。それが俺なんだ。そして兄貴のお古のエンジニアブーツを履いている」

「わたしはね、この近所の大学病院、きっと分かるわよね? そこで医療事務の仕事をしてるの。わたしはあなたみたいに決して頭がいい方じゃない。だから医療事務の資格を取ることだって大変だった」

またウソついちゃった。少しだけ。

 そして二人とも、アップルパイもホットココアもなくなって、手持ち無沙汰でいる。わたしはわたしの手で魔法を解くんだって、オトナなわたしの方がけりをつけるんだって、そう思って、泣きたかったけれど泣かずに、

「ごちそうさま。おいしかったわ。そしてね、ストッキングもとうに乾いてたの。ごめんね。引き止めてしまって。わたしちょっとおトイレによってから帰るわ。今日は本当に楽しかった。ありがとう」

そう一気に言うと、トイレにゆっくり向かった。別にトイレに用などない。わたしは便座にちょこんと座って、確か昨日の体重は49キロだったな。とふと思った。

 マックから出て帰り道、恋したのかな。そうも考えた。そしてその恋が成就する可能性は? と考えながら、けんけんで暗い道を行く。わたしの部屋はアパートの2階、階段まではけんけんできたけど、それ以上はできなかった。うつむいて階段をカンカンカンカンと昇る。途中途中錆びた階段だ。朱色で塗られている。もう真っ暗だけどアパートの照明が、まるでスポットライトのように、今階段を上りきったわたしを照らしている。少しだけ涙が出た。もう会えるはずなんてないからだ。

 部屋に入る際、部屋の照明をつける。目がパチパチするようなまぶしさは、いつもの通りだ。そしてコートを脱いで、クローゼットにしまう。そしてナインのシューズボックスを玄関のアディダスの靴の箱の上に置く。そして脱いだナインのパンプスをそこにしまう。そうしてやっとくつろいだ気分でイケアで買った、これもムートンの敷物の上に座って、ピースに火をつける。仕事があった日、帰ってきてくつろいだとき、その時だけの限定のタバコだ。そう、ピース。ピースっていうのは平和っていう意味。そんなの常識?

 この部屋を借りるとき、本当はすっごくドレッサーが欲しかった。ヒロコの家にあったドレッサーがあまりにもステキで、様々に置かれる、なんだかやけに高級そうな化粧品も素敵だった。こういうのいいなって思った。将来わたしも同じ、似たような体験をするのかなって思った。けれど今は脚がスチール製の低い小さなテーブルに、鏡を置いて、その周りに資生堂の化粧水、美容液、乳液、クリームって置いて、反対側に色とりどりのマニキュアを置いている。そう、みな、そう高いものじゃない。だいたいのマニキュアは三つで千円でドン・キホーテで買ったものだ。けれどドラッグストアでポンポンカゴに入れるようなものでもない。ニベアもないし、ユースキンだってない。ピースを胸の奥まで吸い込む。それでいいって思いたい。それで十分だって思いたい。でもさ、あのドレッサー。比べちゃうよ。少しくらい。

 そしてわたしはタバコを吸う前に、きちんとコートは脱いでハンガーにかけ、クローゼットにしまい、靴もサンダルとフラットシューズ、その2足しか玄関に置かない。バッグを置き、明日持っていくものがあれば、その準備をし、そしてくつろぐ。そういうことがとても大切だって思ってる。休みの日、多少朝寝坊したって、顔を洗いお手入れして日焼け止めを塗り、布団を干したり、デイリーにはできないような掃除をする。それだってわたしの中でとても大切なことだって思ってる。そしてピースを一本吸い終えてしまっても、わたしは決してあと一本に火をつけない。それだってわたしの中で大切に思っているものだ。

 わたしは49キロのわたしの下に下敷きになっているムートンの敷物に、「ご愁傷さまね」と声をかけてから、お風呂を掃除しだした。明日は日曜日だ。どんな風に過ごそうかな?

その日は髪を乾かしながらいつまでもYouTubeを見ていた。ある好きなロックバンドがいるのだ。輝きを求めて駆ける、その求める姿が、その汗がとてもきらめいて見えるのだ。そして思う。わたしにはわたしのオーディエンスなんていないけど、いるつもりでいたい。そのオーディエンスに、わたしの必死に駆ける姿と、その時にかく汗を見せたいと。

 わたしはその夜夢を見た。バンドが演奏するのを、客席から見ている。そして、そのボーカルが走っていく。わたしは必死でそのボーカルを追いかける。ボーカルは海、テトラポットの上に立っている。わたしが「危ない!」と叫んでいるのに、わたしに吹く風が、向かい風のせいか、ボーカルには届かない。海の匂いにむせるような気持ちになる。そう、ハエがたかった干物の匂い。そしてまた「危ない!」と叫ぶ、するとテトラポットまで打ち寄せる波と、強い海風に気がついたのか、テトラポットを戻ってくる。そして、微笑むわたしに近づいてきたのは、バンドのボーカルではなく、微笑む「日本の 王子」、あの青年だった。

また新連載2:卒女生徒

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でも「順調に進んでる」って言っていいのかなって思う時もそれはある。だって彼氏がいたことなど、人生のうち、一回もないのだから。それでいいのかなって思う。時々すっごく思う。誰にも言えないけれど三十のわたしはまだ処女だ。そういう女子っているのかなって考えたときに、ふっと前を向くとここいら辺では一番背の高い、タワーマンションが見える。このタワーマンションに知り合いなどいないし、中は知らないけれど、てっぺんについている、ピカピカ点滅する、その灯りが可愛いなっていつも思う。きっと広いリビングがあるんだろうなとか、やっぱり床暖なのかなとかも思うけど、そんなことより、やっぱりあの一番てっぺんにある赤い灯り、ピカピカ点滅するあの赤い光、それがなんだかかわいいと思う。特に朝なんて急いでるから、もっとだけれど、仕事からの帰り道、そうね、今日はショッピングもして食事もしてからの帰り道、何階まであるのか数えてみてもいいかもしれない、と思った瞬間に、きっと数え始めたら、すぐに飽きてしまうだろうって思って、数えるのをやめる。それはよくある現象で仕事からのつまらない、けれどとても確かな帰り道も起きる現象だ。

 それにしても駅から徒歩十分っていうのは、本当に好立地なのだろうか? 駅から帰りながらよく思う想念だ。不動産のチラシには確かに「駅まで10分の好立地!」と書かれていたと思いだせるのだけど、10分っていうのは歩いてみるとけっこうあるっていうような気がはじめっからしていた。「10分」。それを楽しめることもあるし、苦痛でしょうがない時もある。悲しくなってくることだってある。悲しくなってくるときっていうのは、たいてい比べているときだ。たとえば大手の出版社の編集者をやっている旦那さんを持ち、美貌で、美容部員として百貨店で働く友人とわたしを比較なんてしてしまう時。若い頃は、比較してしまった瞬間、次の瞬間に、それを否定した。比較なんてばからしいのだと。けれど最近は少しだけ違う。比べちゃうよ。だって。

 ぼんやりと交差点を渡っていた。足元の水たまりを避けつつ、青信号を永めながら歩く。突然足が踏まれた気がして、すぐ前を見ると

「ごめんなさい!」

と言って謝る青年がいた。ああ、わたしこの青年に足を踏まれたんだって、やっと納得したし、それが水たまりの中での出来事だったっていうことも理解した。

「どうしよう。ごめん。足踏んじゃって。なんだか髙そうで新しそうなパンプスなのに」

「いいえ、いいの。だってね、今日新しいパンプスも買ったばかりなの」

そう言って、ナインのシューズケースの入ったショッパーを高く上げてみせた。我ながら上出来だ、そう思った。そして行きすぎようと、

「じゃあ」

と言うと、

「待ってくれ。足、ストッキングが濡れちゃっただろう? 乾くまであそこのマックでお茶しない?」

別に用事があるわけじゃない。そしてこれがナンパだっていう風にも思えない。そしてわたしが特段、きれいだってわけじゃないし、スタイルがいいっていうわけでもない。ナンパっていうわけがない。

「でもね、お茶を飲み終わるより先に、ストッキングなんて乾いちゃうと思うけど」

と言うと

「いいから」

と言って、マックの方へ進んでいく。その「いいから」っていう言葉に、ああ、やっぱり。グレースのムートンっていうやつとナインのパンプスは、魔法をかけるんだ、と思った。彼がわたしのパンプスを踏んだのも魔法、ストッキングが濡れたのも魔法、「いいから」っていう青年の言葉も魔法。魔法だからとける日がくる。まるでめざし時計が鳴りだすみたいに。その魔法がとける日、それがもっと先だといいな、っていうか覚めないでほしいなって思う。でも本当は怖がってる。今は月と星がきれいなこの空は、ずっとずっとつながっている。たとえばそれは場所によってはとても美しい、洗濯物をビビッドに写す晴天であったり、なんだか気が滅入るような曇天であったりしてもだ。

 わたしだって隣にいる人の手を握ってみたい。それが冷たいのか暖かいのか確かめてみたい。けれど怖い。手を取ろうとした瞬間に、ふいっと避けられるのが。

「今日は本当にごめんね」

そう言いながら青年が持ってきたのはアップルパイとホットココアだった。そしてその背年はそれらをテーブルの上に置き、ダッフルコートを脱いでいる。ブラウンのセーターに、黒のスキニー、そしてエンジニアブーツだった。その恰好を見ただけで想像がつく。きっとこのエンジニアブーツは思い切った買い物だったのだろうなって。欲しくて欲しくてしょうがなかったんだろうなって。

 青年は「どうぞ」と言って、アップルパイを自分でも食べだした。

「じゃあ、いただきます」

そう言ってわたしもアップルパイの封を開ける。すると青年が、

「あ、」

と言って、一回アップルパイを置き、

「いただきます」

と言ってから笑う。こんな魔法いいな、本当にいいな、そう思いながらわたしはホットココアのカップに口をつける。アップルパイのトロッとしたリンゴも甘い。ホットココアも甘い。甘い甘いひと時。それだけのひと時。終わってしまったらなんでもない、この長い人生の先に覚えていられるか、それもわからない、けれど舌に残る甘さは本物の、そんなひと時。

 青年の顔を見る。いわゆるおしょうゆ顔っていうやつだろうか? なんというかさっぱりした顔をしている。「日本の、夏」という決め台詞を耳にするようになって長いが、なんていうか、この青年も「日本の、王子」とでも表現したい顔をしている。ふっとお母さん、お父さん、ごめんなさい。という言葉が浮かび、なんだそれ? ときょとんとする。

「もっと派手なのかなって思った」

「え?」

「うん。服装のこと。なんていうのかな、新宿ミロードなんて俺、行ったことないけどさ、そういうところで買うようなね、そんなファッションで身を固めているんだろうと思っていたから、そのシンプルなニットとボーイフレンドデニムが妙に新鮮」

「わたしは時々は新宿ミロードに行くけれど、そうは買わない。今年の夏、ミュウミュウのミュールを買ったかな。あとは、ああ、そういえばマークジェイコブスで秋にバッグを買ったっけ」

みんなウソだ。新宿ミロードへの行き方でさえ危うい。

「靴、ごめんね。新しそうだったよね」

「そんなに新しくもないわ。ただ時々にしか掃かないっていうだけ」

それもウソだ。

 今、魔法がかかっているつもりのわたしは、多分シンデレラなんだろう。それならばこのナインの靴を置いて、けんけんで帰ってしまいたい。できるだろうか、わたしの部屋までけんけんで帰ることが。そんな風に考えたら、なんだかバカらしくなって、わたしのウソだってバカらしくなって、何をそんなに気取った女なんだって、もうバカらしくなって、青年が踏んだ方の、ストッキングが濡れた左足にパンプスを履かずに足を上に組んでいたのを、もうやめたくなってきて、よく考えてみると、何を考えていたんだって気持ちにもなってきて、いいや、と立ち上がって、

「帰ります」

と言ってしまった。

青年はわたしを見上げ、「え?」という顔をしている。

また新連載1話:卒女生徒

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 それにしてもあの話には驚いちゃったな。でもなあ、そういうの、もう当たり前なのかな? だってヒロコとわたしは同級生。だから来年三一才になるわけだ。そうして旦那さんがいて、ヒロコだって美容部員として百貨店で働いているのだから、そういうマンションの資料請求とか、マンションのモデルルームを見学するとか、そういうのってまあ、不思議でもないのかもしれないな。変な話、なんかヒロコの旦那さんって大手の出版社の編集って聞いているけど、いくらくらいとってるんだろう? だってマンションっていうのは、数千万とか、億を超えるとかそういうのもあるわけなんでしょう? ヒロコの話によれば、旦那さんはとんでもなく早いスピードで本を読むのが得意らしいけど、わたしだって本くらい読む。まあ、それはいいけど、編集っていうのがどんな仕事をするのか、ちょっとわからない。なんだか忙しそうとか、ドトールとか、前頭部禿げとか、そうね、ヒロコの旦那さんは禿げてはいないけれど、そうね、タブレット。そのヒロコの旦那さんを一言で表現するとしたら、「キーパッド付きのタブレット」だって思う。そしてやっぱりなって一人で思う。確かにあのヒロコの旦那さんは編集者だ。だって横に長くて楕円形の黒ぶちの眼鏡をかけてたもん。やっぱりそうなんだ。そう「タブレット

 そっかあ、そっかあ、って思いながら雨上がりの星がまたたく空の下、水たまりを避けながら歩く。でもさ、そんなことはどうでもよくってさ、この雨上がりの夜空みたいな素敵なコートを着て、ステキなパンプスを今履いている。コートはグレースのムートンコート、二十三万円なり。パンプスはナイン、五万円なり。買っちゃった。買っちゃったもんね。このコートを着て、このパンプスを履くとね、魔法が起きます。それはね、それらを身に着けた女子を、すべて、すべからくステキ女子に変身させるっていう魔法。ねえ、そこの少し酔っ払ってるおじさん? わたしステキ女子に見えますか? もしかしたら見えますか? 本当はステキ女子じゃないわたし。でもね今はステキ女子。そうなの。ボーナス、残ってないけど。

 わたしは高校を卒業してなんとなく医療事務の学校へ進学した。よっぽど頭が悪くなければ医療事務の資格っていうのは取れるって気がするけど、親戚には

「医療事務の資格を取るには猛勉強しました」

って言ってる。その親戚の息子さんは早稲田卒だったりもするけれど、わたしはすまーしてそういう風に言いう。リカコちゃんは、立派だね。よくよく勉強して、今は病院務めだよ。お父さんの山形に住む親せきだ。なるほどーって納得するらしい。

 いま左手にグレースのショッパーとナインのショッパーを持ってる。そこにわたしがお店まで着ていたピーコートと、ショートブーツが入っているっていうわけ。それほど重くない。っていうか今日ならば米俵だって担げるかも。つまり機嫌がいいっていうわけ。だって仕事が終って表参道へ出て、お店に入るまでは雨が降ってた。けどわたしがコートとパンプスを買って表へ出たら、星空だった。それは汚いものも美しいものも、ウソも本当も、間違っているものも間違っていないものも、あるいはそのどちらか区別もつかないものも、みんな洗い流してしまったような星空が地球全体を覆っているんじゃないかしら? って思ってしまうような夜空だった。知ってるわ。地球全体が夜になることがないことくらい。もちろんオーストラリアは星空じゃないことくらい。

 ムートンのコート、ずっと欲しかった。本当にあったかいことは毎年知っていた。どうしてかっていうと、毎年毎年、試着だけはしていたからだ。そして今年やっと買った。これがうれしくなくて、何をうれしいと言おう! なんてね。パンプスは、もちろんパンプスも気に入ってるんだけど、これはムートンコートを買ったときに何かに憑依され、憑依されたまま買ってしまったっていうわけ。いつもは好きじゃない水たまり。だけど今日は愛情を持てる。水たまりに対してだって愛情を持てる。だって星空と景色と車のヘッドライトと、信号の色を写してる。

 わたしは医療事務の学校を出た後、それこそ聖路加とか、有名どころの病院や、大学病院に面接に行った。けれどいつも不合格だった。母はそれをわたしの人相が悪いとか、父はそれをお前は愛想がないからな、とか言った。でもそんなものがなくっても有能な医療事務の職員として働けるはず、そう思った。けれど本当に面接に落ちまくって、やっと合格したのはわたしの実家から駅二個目、新越谷の個人病院だった。一生懸命働いたけれど、その診察の合間にある、お昼休憩二時間は当初本当に戸惑った。なんていうかうろたえるばかりだった。なにか仕事はないかって思ったし、二時間も何をしてりゃいいのよって思った。けれど今はスマホでテレビを見たり、本を読んだりして過ごしてる。たまには昼寝だってする。初めて昼寝をしてしまったときは、目覚めたとき「しまった!」って思ったものだった。でも今は別に「しまった!」なんて思わない。「あーあ、よく寝た」って思う。その病院っていうのは院長先生とその奥さんも医師として働いている家族経営っていうのかな? そういう病院で、看護師さん三人の女性ともわたしは違う立場にいたから、なかなか最初馴染めなくって、それがわたしを最初二時間の休憩にあまりにも所在ない気持ちにさせたのかもしれない。

 初めの三カ月は必死だった。仕事も必死だったし、休憩も必死だった。けれど何にたいして、とても必死だったかっていうと、お金を貯めることに必死だった。お昼、外食になんてとんでもないと思った。三人の看護師さんたちがわたしをランチを誘ってくれても断った。

「わたし、お弁当だから」

そう言って断った。お弁当はお母さんが作ったものじゃない。わたしが早起きして作った。なんでそんなに頑張ってお金を貯めていたのかというと、一人暮らしをしたいからだった。それは大人になるためのマナーだって思っていた。実家にいてさみしいのなら本物のさみしさを味わってやるっていう意気込みみたいなものもあった。別に彼氏がいたわけじゃないし、年中やって来て一緒にワインを飲んでチーズを食べる友人がいたわけでもなかった。そう、それが大人へのマナー。そう思ってお弁当を作っていた。母のお弁当でお金を貯めるつもりもなかった。もちろん、卵焼きを作るときの卵は、お母さんが買ってきたものではあったけれど。

 そして今の1Kの部屋を借りた。もう十年住んでる。初めて更新の知らせがきたときにはびっくりした。こんなにお金がかかるなんて知らなかった。その時は、なんていうんだろう、必死で「世知辛い」っていう生活をして何とか払った。そのあとは順調に進んでる。