今考え中だ

こじらせ中年って多いですよね。恋愛市場引退したいような、それでいて、私だってまだまだ的な。「まだまだ、ときめいていたいっ」っていう完璧リア充も多いけど、一方で、わたしなんて、いやー、もう、でも?みたいな人も多いと思うんです。つまらない日常からどうやって目をそらしてこう?というヒントが提示できたらという作品を書いていきたいと思っています。また、考えすぎて頭がバカとか変態になっていしまった方へ向けてのメッセージも込めてます。若い人にも読んでいいただきたい!死ぬからさぁ。

(お礼を込めて)赤鼻のトナカイさん

f:id:tamami2922:20201018054641j:plain

今は2015年12月25日、0時29分だ。つまり今日はクリスマスであって、昨日はクリスマスイヴだったわけだ。イヴ。それを人は大いに祝う。誕生のわくわくに誰もがじっとしていられないのだ。

 そう、わたしもだ。順ちゃんが買ってきたオードブルとチキン、ケーキをむしゃむしゃと食べて、順ちゃんが飲めない赤ワインを大いに飲んで、したたか酔っぱらい、今日はイヴであるからいいのだ、と病気のダイエット中のセキセイインコ、ポコちゃんに餌を多めにやったかと思うと、今度は、順ちゃんが来ないと刺す、と座った目で言ったそうで、ベッドに入った順ちゃんにしがみつき、

「誰が赤鼻のトナカイを笑えるってんだよお!」

と叫んだかと思うと、そう、なんとなく覚えている、エレカシのメドレーをやった。その後、順ちゃんにもなにか歌えと強要した挙句、ぼそぼそとクリスマスソングを歌う順ちゃんにしがみつきながら、少し寝てしまった。目をパチパチと起きると順ちゃんはそこにはおらず、インコのケージには何枚ものブランケットがかけられていた。今はわたしは父方のおばあちゃんの形見の、西川の毛布を膝にかけているので、去年まで使っていた、2枚のブランケットはセキセイインコに譲った。

 そう今頃、サンタさんも大いに、赤鼻のトナカイも大いに、それこそ張り切って、働いているのだろう。それは子供たちに希望を与えるためだ。うん、素晴らしい仕事である。尊いお仕事だ。

 

 本なんて、本など、読まなければ読まないほどいいのだ。芸術一般、それっていうのは生活に倦んだ時に接するものだ。倦怠の産物。それが本だ。だいたいにおいて家のマンションに住みついている猫たちは、どうやら本を読まない。それは生活のすべてが生であってそこには倦怠がないからだ。倦怠がない猫には、まあ、そこいら辺はよく存じあげないけれども、多分、文化なんてないように思える。本を読まない猫は尊い。生活に倦むということを知らぬ野良猫どもは尊い。生きる。生きていく。それが野良猫たちのすべてだといっていいのだろう。

 

 今日友人と論戦になったことをふいに思い出す。kindleを買ったそうだ。まだ届かないそうだ。そして今までためらった「本を買う」という行為をこれで思う存分できると大変な喜びようで、わたしが「ふん、そんなもの」と発言したら、とても頑固で自説を曲げない友人は、

「読書とは人生を豊かにする」

と言い放った。わたしはそこで、なんせ論の立つべらべらしゃべる友人だったので、わたしはぼそぼそと、

「本、本なんていうのは、読まなければ読まないほどいいのだ」

とやっと言うと、

「読書っていうのは、とっても大切なものだわ。そう、人生を豊かにするんだもの」

とまた主張してやまず、

「どう、豊かになるの?」

と及び腰、

「だって、いろんな人の人生を体験できるじゃない?」

わたしは混乱をきたした。「そうなのかな?」とか「そうかも」とか思ってしまったのだ。つまりわたしの一瞬の怯みをつき、その友人は、話題を転じた。

 

 そして今日は珍しくテレビを見た。途中垣間見たに過ぎなかったからニュースの中の特集であったのか、ドキュメンタリーであったのかはわからないのだが、とにかくそこで「ひめゆり部隊」の語り部、その伝承者、戦争を知らない若者がひめゆり部隊の悲劇を伝承していくというものだった。わたしは単純に感動した。どうやら戦後70年になるらしい。わたしが覚えている「戦後〇〇年」というのは「戦後40年」からであるから、わたしも年をとったわけだなあと一抹の感想もやや混じったが、それはそれとして、その若い世代、その女性たちが、もう八〇代を過ぎたひめゆり部隊からの生存者に変わって、戦争、ひめゆり部隊の悲劇を語り継いでいく。尊い。そう思った。素晴らしい職業だ。わたしもそれをやりたい。

 それにしても「伝承者」としての「語り部」。これはちょっとした文化ではなかろうか。文化の割には有益じゃねえか。随分と偉そうな文化だな。随分と威張った文化だな。もしかしたら文化って偉いのかしら? そう、ちょっと思ってしまうのである。まあ、多くは語らぬ。

 

 そして職業と言えば、今天を、白い息を吐きながら、走っている赤鼻のトナカイさんだ。子供たちに、夢に過ぎないかもしれない、でも夢ではないのかもしれない、そんな宝物、「希望」を、吐く息が徐々に苦しくなろうとも、走って 配っている。そう悪童であってもよい子であっても等しく。それはコンプレックスまで武器にした、とても崇高な、走る「走る」っていう行為に見える。

いつもは笑われている赤鼻のトナカイさん。

いつもは笑われている赤鼻のトナカイさん。

けれど、そんなコンプレックスがあった故に、今日その赤鼻とトナカイさんには「役目」があるのだ。

 

 さてわたしが係る芸術。そいつはブンガク。これは呼吸にさえ役に立たないことで有名だ。でもわたしはさっき気づいてしまったのだ。わたしは赤鼻のトナカイさんと案外似ているのではないかと。己のコンプレックス、それは内緒だけれども、それさえむきになって、武器にして、駆けまわる。必ず、わたしの書くものを、活字を目で追って、読んでくれる人がいるっていうこと信じて。それが作っているわたしにはわからない理由であっても、読んでくれる人が必ずいると信じて。別に負けず嫌いで本を一生懸命読む人に、読んでもらいたいとも思わない。

 

わたしは人が見たなら滑稽だろう。冷えピタのヘビーローテーション。書いていると汗をかきます。考えていると汗をかきます。そうです。わたしは案外な悩む葦です。今はもうユニクロヒートテック一枚でキーボードをたたきます。それがどうっていうわけじゃないっていうことも知っている。それが役に立たぬことも知っている。けれど倦怠が、産んだその隙間、そのふとした隙間、それに入るサイズの光るもの、大きいかもしれないし、もしかしたら、目に見えぬほど小さい砂粒かもしれない、なにでできているのかもわからない。でもその隙間の、無益な存在であるがまま、役に立ちたいのだ。

 

そして時に人は痛烈にそれを欲しがる。そうなの。わかってる。本を読まなきゃいられない、そんな弱さ。人にだけある、そんな弱さ。本を読まない子供より、本を読まなきゃならない、オトナの方が、なんぼか大変か。そういう時がたまに訪れるっていうこと。たまには隠れたいと思うこと。本を読まなきゃやってらんねえって思う時があるっていうこと。心弱い人間の秘密を解き明かすとすれば、食べるとか睡眠とか、子孫をのこすだけでは、はみ出てしまう、なにか余ったもの、それが精神の世界に侵入してくることを。必要とすらするかもしれない。それはとても「慰め」という姿に似ていて、その、本を読み泣く人を、わたしは泣かないで正視できないのです。そう、駅のホーム。その端の方の冷たいベンチ、そこで本を開き泣いている中年の男性。わたしはあなたの味方です。あなたこそ尊い

 

 どんな職業からも拒否をされ、コンプレックスはいろいろ。それは秘密のコンプレックス、無益だとは知っています。でも役に立ちたいのです。

 そうだ、なんの役にも立たないさ。カロリーでもなければ、女子に必須のビタミンでもない。けれど生活の倦怠を感じたなら、そこに隙間を感じ、空虚を感じたら、もしかしたら読んでくれるかもしれない。それを願って、今日もキーボードをたたく。

 

赤鼻のトナカイさんを誰が笑えよう?

赤鼻のトナカイさんを誰が笑えよう?

わたしは酔っ払って、何回も何回も叫んだんだそうです。

生活の倦怠。それは大きいため息だ。

 

心細い。なにをあてにしていいか、わからない。

病気のセキセイインコのケージを夫婦で覗き込む。そう、薬を飲み続けなければ死んでしまうブルーのインコと、片足がびっこの黄色いインコを飼っています。それを見ているとなんだか泣けてしょうがない。確かにこのポコちゃんときぃちゃんは神だ。けれどそれを見て泣く私と、それを覗き込んでは見てみぬふりのわたしの旦那。そう神より偉いのはわたしたちなんだ。

 

新連載の最終話:猫とベイビー

f:id:tamami2922:20201017201754j:plain

俺はそこで深呼吸をした。話しながらブレスの瞬間がうまくつかめない。

「俺はデートの最中、いつもゆきの爪ばかり見ていただろう?それは爪が貝殻みたいできれいだっていうこともあるけれど、それは他にも理由があるんだ。つまり、君の目を見れなかった。顔も見れなかった。まぶしすぎたんだ。太陽を直視できないように、まぶしすぎて、まぶしすぎて、ゆきの顔が見れない。ずーっとそうだったんだ。まぶしいんだ。どうしよもないんだ、どうしようもない、俺は君が好きなんだ。どうしようもないんだ。変なことを言うようだけど、今はゆきのことを普通の髪の長い女性って言う風に見える。そして下の歯が少しがちゃ歯なのも知ってるし、奥歯に虫歯があることだって知っている。だけど好きで好きでしょうがないんだ。俺にとってはゆきは特別なんだ。多分一生特別なんだ。俺は多分ノーベル平和賞をとれないし、おそらく区議会議員にもなれない。いや、もしかしたら努力すればなれるのかな?俺はそういうことに正直疎い。なれるのかもしれないけれど、多分なれないだろう。でも俺にできることがたった一つだけあるんだ。それは空き地に座って、時間も忘れ、眠ることも忘れ、お腹が空くのも忘れ、お尻が湿っていくのもかまわず、ひたすらシロツメクサを編んでいくっていうこと。それはできる。だから、だから」

思うように息ができたらなあと思う。うまくブレスをつかめないから、一気に呼吸することもなく言ってしまっているような気がする。そしてその「だから」と言ったあとに、何を続けていいのか分からない。ゆきはしばらく笑いをこらえるような顔をしていたが、俺が「だから」を2回言った後、笑い出した。

 

 「しょうがないわねえ、ほんっとしょうがない。いいのよ。私がピアノ教室でもやって、食べさせてあげるわ。だから次の3点を守って。一つ目はいたずらに部屋を散らかさないこと。これは少し健二君に見られる傾向よ。ポテトチップを食べ終わったって、袋をゴミ箱にだって捨てようとしない。二つ目はね、いつかみたいに、私のために、閉まっているシャッターを、必死で、本気になって叩き続けてくれること。そして三つ目はね、いつかピカピカの帽子をかぶって、ギターを弾きながら歌って、客席にいる私に向かってピカピカの帽子を投げてくれること」

そしてゆきは、ゆっくりコーヒーを一口飲んで、脚を組みなおしてから、

「あとはいいの、いいのよ。それだけよ。健二君が健二君であるならばそれでいい。ノーベル平和賞に幻惑される様な、そんな簡単な女じゃ、私ないつもり、そしてね、私の大事にしてた秘密を教えてあげるから、ちょっと私の横に座ってくれる。いつまでも正座してたら、足がしびれるわよ」

俺は立ちあがったが、よろけた。ゆきの予言通り足がしびれていたっていうわけだ。

何とかソファのゆきの横に座り、ゆきはなんだか今、初めて見るような表情、戸惑い?違うな。そう、恥ずかしがっているようにも見えるんだ。そして内緒話をするときのように、俺の耳に手をあてがい、息が漏れていくみたいに、小さな声でささやく。

「あのね、大きい声じゃ言えないんだけどね、私がね、いつも使っているグロスにはね、名前がついててね、いつも使っているグロスの名前は、『花のみつ』、そして健二君には限定で『内密に』をつけてるのよ。私、その程度の女なの」

って言うから俺たちはこの世から不幸が一切消え去ったのかもしれない、やっと世界中の空がつながったのかもしれないって言う風に、大声で笑いだしたんだ。そして、ゆきはそのままこう言ったんだ。

「駅前のラーメン屋に行かない?こってり塩ラーメンを食べたいの」

俺はなんていうだろう、そうだ。そのこってり塩ラーメンを大盛りで食べようと思った。大盛りがないのならば替え玉を。今奇跡を起こしたのは俺じゃない。ゆきなんだ。

 

 

もし僕が万物の創造主になれたなら

 

君に

 

君によく似た芍薬の大きな花束と

キラキラ輝くダイアモンドと

アンティークなイス

 

みんなみんなプレゼントする

 

もし君がそれらを欲しいと願うのなら

今、僕はどうしたって万物の創造主っていうやつになってやるって

そんな気概が湧いてくるんだ

 

もし君がそれらを欲しいと願うのなら

 

 

 

いつか結婚式をあげよう。俺はそう言っていた。そのまま俺は29になりゆきは27になった。俺はというと、大学の頃の友人に電話しまくって、何とかバンドを組み、妥協しながら、それでいて時にはむきになって、のみこまれたり、まきこまれたり、妥協をやめたり、そんな風にしながら、何度もメンバーチェンジを繰り返すという変遷をしながらも、今は、そこそこの動員数のある、それでいて地味だが確かな存在感のあるそんなバンドになることができた。

 そして俺は売れてくると、ゆきと内緒話をした数日後に見つけたラーメン屋に努めたが、それも辞めた。それはそれほど真剣にラーメンを作っていたわけじゃなった。サボりながらやっていた。たまにはあくびもした。けれど今は真剣に、サボれないものを持っている。

 

俺たちはオープンガーデンで式を挙げた。式って呼べないかもしれない。パーティーのようなものだ。俺は29にもなるのに照れまくっていて、照れすぎて赤ワインに酔ってしまった。ゆきは隣で笑っている。ウエディングドレスを着たゆきはとてもキレイだった。けど、そのことに動じるほど俺は弱くなくなっている。その日空には雲さえなく、どこかのデパートの屋上なのか、それともモデルルームなのか分からないが、ピンク色の丸いアドバルーンが浮かんでいる。近くで見れば、それはバカでかいんだろう。けれどここからでは、そう大きく見えるわけじゃない。それだけの装飾しかないそんな青空だ。そんな青空の元ゆきは笑っている。笑い続けている。なにがおかしいのか知らないが、照れている俺の横でゲラゲラ笑っているんだ。頭にはシロツメクサの冠が乗っかっている。ゆきは笑っているんだ。高い青空に突き抜けていくようなそんな、笑い方で。

 

                                   了

 

新連載11話:猫とベイビー

f:id:tamami2922:20201017201754j:plain

 

俺はやっとスマホを取り出し、少しいじってみる。そして電話帳を開けて、ただスクロールする。ダメだった。そんな心境で電話をしたら、俺の声はのどを狭められ、うまくしゃべれないだろう。そして泣きたい気持ちにもならない。終わりを見るときは他人は涙を見せず、ただふわふわ浮いているだけだってことを知った。そしてゆきに電話をする。呼び出し音が流れて、俺はすぐに電話を切った。やっぱりだめだ。おしまいは見ないで、ただの無職の24歳になってしまってもいい、そう思ったんだ。するとゆきから電話がかかってきた。出た。

「首尾はどう?」

「ゆき、聞いてくれ。俺はめんてぼを盗む子に失敗した。そしてさらに言えば、俺はさっき、ラーメン屋をクビになった。俺にはもはや、ラーメン屋で働く、という特性もなくなってしまったんだ」

「つまりはめんてぼ窃盗を失敗して、ラーメン屋をクビになった。そういうことなのね?」

「まあ、そんな所につきる」

「もういいから、早く帰ってきなさいよ。今日はやけっぱちにお酒を飲みたいかもしれないけれど、飲酒運手には反対よ。ゼストでくるんでしょう?温かいシャワーを浴びれば、何か新しいアイディアが浮かんでくるかもしれないわよ」

「帰ってもいいのか?」

「もちろんよ」

「何か特別な話があるんだろう?」

「そうよ」

男女の別れには、たいてい何かしらの会話があり、そして別々になていく。そしてそれが修羅場でないとしても、

「時間は短かったけれど、あなたと付き合ったことに後悔なんてしてないの。ありがとう」

とか

「いつまでもお元気でね。そして明るい奥さんをみつけて幸せになってね」

等々だ。俺は円満に女と別れるとき、女はみなそんなことを言う。でも、ゆきは音楽家だ。つまり芸術的な女性と言える。そんなゆきがいくらでもいる公園の鳩のように、他の女とおなじようなことを言うとは思えない。ゆきも「惜別」と思ってくるだろうか。最後だ。どうしてもゆきの姿、笑顔が見たい。

 俺のゼストはふわふわと動く。店長もふわふわと言っていた。そしてさっきも俺はふわふわしていた。もしかしたら、ふわふわしていることは罪なのかもしれない。店長の言うように。まるで空に浮かぶ雲の中を走っている気分だ。俺はスピードを出さず、ゆっくりゼストを走らせた。ちょっと先に赤い傘を持った。女の子がいる。俺はその女の子の横を通り過ぎる時、

「そこの赤い傘をさしたお嬢さん、俺のことを俺だと思っているでしょう。でもね、少し違うんだ。俺は俺のように見えるけど、本当を言うと紙風船なんですよ」

そう、俺は空っぽだった。赤い傘に気づいてから、小雨が降っていることに気づく、いつも、いつも、もしかしたら大切だった物事を一瞬忘れてしまってから、気づくんだ。そしてそれは俺の習性なのかもしれない。サボっている、サボってきた、だって、人生に起こる何を見ても、何を聞いても、何を語られても、それらは俺にとって「サボってもいい何か」としか思えなかったんだ。

ゆきは笑って俺を出迎えた。

「さあさ、シャワーを浴びて。私と一緒に明暗でも練りましょうよ。そういうのって健二君、上手でしょう?」

「でも、実行に移すと俺は何もかも終わらせてしまうんだ。俺は計画を練って、事に臨み何もかもめちゃくちゃにしてしまう。それはいつもいつもなんだ。ゆきだって知っているだろう?」

「終わっているように見えるだけよ。本当はきっと続きがあるんだわ」

「そうかな?」

「そうよ。きっとそうよ。バスタブに熱いお湯もためておいたの。ゆっくり入るといいわ」

俺は服を脱ぎ、パンツを脱いだ。その「服を脱ぐ」であるとか「パンツを脱ぐ」っていう動作をするためのエネルギーがどこから湧いてくるかさえ分からない。

俺はいつゆきが致命的な会話を始めるのだろうと、そのことばかり考えていて、ただ湯気の立つコーヒーの中身をのぞいているだけだ。ゆきの言葉なんて聞いているような気もするが、聞いていないような気もする。そしてよく見るとゆきは今日は化粧をしている。俺はつけまをばっちりつけるような、化粧の濃い女は苦手だ。たとえ美しいと思ったって苦手なんだ。その女たちはなにかを隠している。そしてそういう女はシャンプーじゃない、何かの香りを振りまく。動物的個体性さえ、そういった女たちは消そうと必死なんだ。

そこまで考えてみて、ゆきを思う。ゆきは確かに水族館デートの時、化粧していた。俺はそのことを知っていた。というか、分かっていた。そしてゆきがすっぴんを見せたその瞬間だって覚えている。でもそれからはいつゆきがすっぴんであって、いつゆきが化粧をしているその姿を俺に見せたっていうことは、もうあいまいで分からなくなっている。あの時は?あの時は?と思ってみてもあいまいでよくわからない。もしかしたら俺は、ゆきが化粧をしていようと化粧をしていなくても、どうでもよくなっているのかもしれない。

「明日ね、粗大ごみでこのカーペット捨てようと思ってるの。手伝ってね」

「うん」

俺は相変わらず、コーヒーの中身を見ていたが、少し頭をはっきりさせようと思い、一気にコーヒーを飲みほした。「明日ね、粗大ごみでこのカーペット捨てようと思ってるの。手伝ってね」?

俺は仰天した。俺は朝までいていいらしい。しかもカーペットを捨てるというのは必ず、一人ではできない共同作業と言うことになるだろう。ケーキカットの前にあらかじめ予行練習でもするような、そんなカーペットを捨てるっていう共同作業。

 俺はどうとでもなれ、という気もちになり、そして逡巡し、そして考える。俺は今までとことんサボってきたけれど、ゆきに対してはサボったことなどないぞ、と。今、今この瞬間だって、サボるべきではないのだ。サボっていい時もそれはある。というか、俺の人生はその連続で、俺は麺を切りながらよくあくびをしていた。女とその前に見る映画を見ている最中にだってあくびを連発したし、しょんべんをしながらだって大きなあくびばかりしていた。そうだ、今はあくびをしている場合じゃない。カフェインは俺に勇気とエネルギーを注入した。

 そしてゆきが座るソファの向こう側、コーヒーテーブルを挟んだ向こう側に俺は正座をした。俺もまた正座か、芸がないなと思うのだが、それ以外やりようがないんだ。

 「俺は現在24歳で、無職だ。そして自慢できるような学歴も持ってないし、ポルシェだって持っていない。そんな24歳だ。そんな24歳だから、なんの自信も持てやしないし、俺だってゆきが俺のことを好きになってくれるとも思わない。へまをしてめんてぼ窃盗も失敗し、おまけのようにラーメン屋もクビにもなった。どこに、どの辺で自信をもっていいのか分からないし、今はただひたすらに自信がない。それは多分自信をもっていい場所を俺が持っていないからだって思う。今こそ、宿はなしを歌うべきなんだろうなって俺はここに来るゼストの中で考え続けたんだけど、そんな歌声なんて出てこないんだ。そう、宿はないのかもしれない。でも宿はなしを歌えない。矛盾だとも思う。でも歌おうとおもうのに、口から出てくるのは空気なんだ。溜息ですらない。空気が漏れていくだけだ。そうやってここに着いた」

新連載10話:猫とベイビー

f:id:tamami2922:20201017201754j:plain

そして緞帳がまた開く。向かいのホームに赤いラインの走った電車が止まり、乗客を吐き出してから吸い込む、そう深呼吸するようにして、また走り出す。そうだ。俺の目の前の緞帳は開かれ、何かが走って行った。始まるのだ。俺の冒険の第2章が。俺は腕が震えるような気分で、そしてそれは本当に震えはじめ、両手をぎゅっと握り、ワクワクした気持ちはあの赤いラインの走った風景と同じように見えたんだ。つまり走っていく。そういうことだ。

 ホームでゆきに電話をかけた。ゆきに電話するなんて久しぶりの様な気がする。ゆきが笑いながら

「なあに?」

と言う。

「何でもないんだけどさ」

そこで特急が走り、俺の声もゆきの声もしばしかき消される。

「俺の目の前を電車が通って行ったんだ。それは俺たちが走っているから、電車が入って言うように見えるんじゃなくって、本当に電車は走ってた」

「うん」

「つまり、俺たちが走っていても、景色が走っていても、それは同じこと、そう誤解していたんだ。俺は景色にまかせっぱしでいるわけにはいかないっていうことが、最近になって、少し思うようになったんだ。つまり、俺が走って、景色が走っていくように見える。そうしなくちゃならなかったんだ」

ゆきが笑って

「もうすぐ電車が来るでしょう?」

と言うので

「どうして分かった?」

「最近ね、そういうことが分かるようになったのよ。電車に私の声がかき消される前に言うわ。頑張ってね」

 

  俺は予定通り、ラーメン屋に5時に着いた。厨房に行き、

「やあ、おはよう」

と言ってしまう。いつもは

「おはようございます」

だ。

そして厨房の奴らも、

「おはようございます」

と答え、鶏肉と格闘している。

「ちょっと煙草を吸ってくる」

そう言いながら、俺の腕は背後で素早く動き、シーバイクロエのずた袋にめんてぼを入れることに成功した。そうだろう。鶏肉を分解する過程に、一生懸命になっている奴らに、俺に心ときめく恋愛が、内蔵されていることを、洞察できるような奴らじゃない。俺は成功した。そして予定通り、「宿がなし」を歌いながら、厨房を出ていき、バッグルームに戻り、パイプいすに、めんてぼの入ったシーバイクロエをさりげなく置いて、トイレに入った。

 上出来だ。今のところなんらミスはしていない。この後、俺は腹が痛くなってしまうことになっている。期限の切れたちーかまを食べてしまったせいだ。そうだ、今のところ、出来すぎなほど、うまくいっている。俺はさらに上機嫌になり、もう一回最初から、宿はなしを歌い始めた。

 トイレから出ると、店長がパイプいすに座って、タバコを吸っている。予想外だ。そんな予定は立てていない。つまり俺が機嫌よくもちーかまにあたって苦しみ、トイレから出てきたときに、店長がいるなんてゆきと話した作戦には、そんなことが起こりようもなかったが、今現在起きている。

「マスター、おはようございます!」

俺は直立して、店長を、なぜかマスターと呼んだ。

「俺、腹を壊してるんです。さっきも中々トイレから出られなくて。そういうわけで今日は帰らせてください」

俺は恐る恐るシーバイクロエに近づき、持ち手を持とうとするが、持てないでいる。

「お前は機嫌よく歌いながら、下痢をするとでも言うのか」

「俺の下痢は機嫌がいい」

また、俺は変なことを言っているなと思う。

「そしてお前は、めんてぼを盗もうとしているのか?」

 俺は過去に経験している。これも高校の時の話だ。ブルマーの良く似合う、顔もそこそこの女を俺は誉めた。顔がそこそこといったって、特に美人とかかわいいと言える程度でもない。その女の太ももにはセルライトも浮かんでいるような太ももなのに、俺は懸命に、その女子の脚について誉めた。

「なんていうか、君の脚は『黄金比率』としか形容しようのない、素晴らしい脚に俺は思えるんだ。太くはないけれど、そうやせ過ぎでもない。そうなんだ。君の脚は『黄金比率』を形容しているような脚なんだ」

俺は何回か「黄金比率」と言ってみたら、その女の脚は本当に黄金比率に見えてきたんだ。そうやってたまにはウソも役に立つことはあるし、結果それが真実になることもある。そうなんだ。俺はその女の脚が黄金比率であると全身で信じられるようになったんだ。つまり、ウソは貫き通したら真実になる、俺はそう思いしだしていた。

「お借りしたかったんです。俺、最近めんてぼのやり方に少し迷いがあって。ちなみに今日お借りしても、今日はちーかまの食べ過ぎで体調不良っていうわけで、今日は練習できないんですけど、明日早朝5時には起きて、めんてぼの特訓をするつもりでいたんです。ですから、明日の出勤にはめんてぼを持ってくるんで、それまで貸してもらえないでしょうか?」

そうだった。確かに俺は最近めんてぼの扱いに迷いがあった。明日早朝5時に起きたら、めんてぼの特訓をしよう。

 俺はめんてぼを借りるという言葉にうっとりしていた。店長はそう恐ろしいっていう、テレビなんかでやっているような店長じゃない

「クビだ」

「ボス、しけてるぜ」

「お前らにとって、ラーメン屋で働くという意味をつけるとすれば、デート代が欲しい。ラブホに一晩泊りたい、なんとなくラーメンで働くに至った。そういうことなんだろう。でもな、俺には嫁と子供がいて、おれはふざけてやっているわけじゃなく、その嫁や子供を、養っていく。食わせていく、そう2本の足で立つように、ラーメン屋をやってるんだ。そういうバイトの連中が、ふわふわめんてぼを扱うように、または、お前のようにめんてぼを盗もうとするやつに、俺は金を出したくないんだ。クビだ」

店長は、俺のというかゆきのシーバイクロエからめんてぼを取り出し、俺にシーバイクロエを投げ、俺は上手にキャッチしてみせた。

 俺はなんだか無性にゆきの声がききたくなった。俺は電話をしただけで、もう終わってしまうと思っているし、ゼストの中で、ゆきの言葉を聞き、ゆきの表情や仕草も、マルボロのゴールドに火をつけるさまも目の前に浮かぶんだ。俺のこれからの人生は、妄想で終わるのかもしれないとも思う。ゆきが見せたジンジャーエールの飲み方や、手の動かし方、全世界の女に絶対に似合わないだろうという、服装や話し方。それを妄想するだけの24歳、いや、俺がたとえ40になろうとも、それ以上になろうとも、日々妄想し続けるしかないんだろう。

友人が言うかもしれない。

「時間が解決する」

でもそれは違う。ゆきは俺にとっての運命の人にであったんだ。すれ違っていくだけの、そんな恋愛。それとは全然ちがうんだ。それは「絶対」に思えるんんだ。もちろん怖い。今1点目に怖いということは、「ゆきをがっかりしてしまう」と言うこと、2点目は、昨日ゆきの部屋では、もうそこに存在していたゆきを、もう見ることができないということだ。

 

新連載9話:猫とベイビー

f:id:tamami2922:20201017201754j:plain

俺はゆきにキスをした。居ても立っても居られないっていう風に。何度も角度を変えて、長く、長く、ゆきの唇にキスをした。

「苦しい、息ができないじゃない」

そう言ってゆきは笑うが俺は笑わない。

 その時初めて知ったんだ。意志を持つ、人格のある、心のある女性を抱くということ。それはとても丁寧でとても優しい。壊しちゃいけない、そう思う。ただ愛しい。とても大事でとても愛しいという気持ちが湧いてくるんだ。そしてその愛しいという気持ちは何がどう変わろうと、空の色が何色になろうと、俺の身体がバラバラになろうと、続くんだ、そう思った。

 そしてゆきは下着をつけたが、俺は真っ裸のまま、ゆきに

「ごめんね」

と言った。多分説明不足だ。俺は昨晩、ゆきを乱暴に扱ったことを後悔していて、それを考えていたら、つい口から「ごめんね」というつぶやきが漏れてしまったんだ。ゆきは「いいのよ」と言わず、

「ありがとう」

そう言って寝息をたてはじめ、俺もやっと問題は山積みであっても、それはその時、直面した時に考えればいいさ、という気持ちにもなって、やっと安心して眠れたんだ。

 

 起き際、俺は激しいばちーんっというびんたで起こされた。

「健二君、私は何度も健二君を起こそうとして呼んだし、身体だってゆすった。何故起きないのかしら?私は前回は何発ものびんたで起こしたけれど、今回は効率的に一発で起こしてやろうと思ったっていうわけ。さあ、早くシャワーを浴びて」

 ゆきは体育座りをして、マルボロのゴールドを吸っている。そういえば俺はマイルドセブンだ。俺はありきたりな男だ。これからはマルボロのゴールドを吸おうかな?と考えて、いや、俺はそれだから、そういう風に今まで考えてきたからダメなんだと考え直し、一生マイルドセブンを吸い続けてやる、と決意した。

 ゆきの香りのシャンプー。昨日は酔いと、目前に迫るミラクルに圧倒されて、シャンプーの裏書までは読まなかったが、俺は今日頭をごしごし洗いながら、読んでみた。

シャンパンハニージュレ

シャンパンは分かる。あの飲むやつ、酒だろう。ハニーは多分はちみつだ。ジュレ?確か食べ物だったよな。

 風呂から出ると、ゆきは髪を後ろでまとめている最中だった。それを横から見たとき、俺はドキッとした。白い、その首から肩にかけてのライン。それは造形的に完璧に思えるんだ。そしてその首から肩にかけてのラインを、俺は今独り占めにしている。その独り占めにしているっていう状態を、なんとか終わらせないよう、少なくとも短く終わらないよう、そう切実に願うばかりだし、その為なら窃盗だって企てる。そして実行もするんだ。

 「ゆき、俺はめんてぼを盗む」

俺は俺の一言が、何か国政を決定するような大いなる問題に結論を出したみたいに言った。

「つまり、結果、俺はめんてぼを盗む」

俺はもう一回言った。ゆきは

「今度は失敗しないよう、慎重にね」

と言う。その目には強い意志が宿っているように見えたが、俺がゆきの目を見ることなどほとんどないから、いつもなのか、それとも今に限ってなのか、それすら分からない。

「そして」

ゆきは続けて言って、クローゼットの中から、大きなバッグを取り出した。

「これは昨年、友達と温泉旅行に行くために買ったバッグよ。大きいでしょう?これならめんてぼも入るわよね」

見るとそのずた袋には「シーバイクロエ」と書いてある。ゆきが持っているそのシーバイクロエのバッグは確かに大きいように見える。もしかしたらめんてぼだって入るかもしれない。

「ゆき、もうあまり時間もないけれど、作戦を一緒に練らないか」

「そうね。私たちは今まで、少し行き当たりばったり過ぎた気がする。よくよく作戦を練りましょう」

「俺は今日はいつもより1時間早い5時に店に入ろうと思うんだ」

「そして?」

「つまりいつも俺は6時に店に入るんだけど、5時っていうと厨房で仕込みをやっている奴らがいるんだ」

「うん」

「そこにはめんてぼが、めんてぼが置いてあるわけだ」

「うん、うん」

「俺は後ろ手に持ったシーバイクロエにめんてぼをさっと放り入れる」

「ナイス」

「俺はちょっと煙草を吸わせてくれと言って、いったんバッグルームに戻る。その時、厨房からバッグルームに戻るとき、鼻歌を歌いたいと思うんだけど、なんの曲がいいだろう?ゆきはどう思う?」

「そうね、木綿のハンカチーフなんてどう?」

「それもいいな」

「もしくは、そうね、健二君はその時大きなシーバイクロエを肩に担いでいるわけだから、その後ろ姿に似合うのは、『宿はなし』なんて、抒情的だしいいと思うな」

「OK。そうしよう。そうだな俺は厨房から去り際に、宿はなしを歌うことにする」

「そこで煙草を吸うの?」

「違うんだ。シーバイクロエを、そうだな、乱雑に並べられたパイプいすの上に置いて、トイレに駆け込むんだ」

「どうして?」

「いいから、聞いてくれ。俺は結構長い時間トイレにこもる」

「うん」

「そして青ざめた顔で、厨房に行き『やばい、何かにあたったらしいんだ。そういえば今日、賞味期限の過ぎたちーかまを食べてしまったんだ。あれがいけなかったのかもしれない。タバコを吸おうと思ったら、いきなり催してしまって、今までずっとトイレさ。俺は今日は帰る。店長によろしく言っといてくれ』と言って、むんずとシーバイクロエを担ぎ、店を後にする。そして俺の中古で買った、ホンダの軽、ゼストを走らせ、ここまで戻ってくる」

「そしてここでラーメンを作ってくれるっていうわけね」

「察しがいい。その通りだ」

「よく練られた作戦だわ。いつ思いついたっていうか、いつそんな作戦を練ったの?」

本当は作戦を練ろうと言いだしたとき、俺の中には何の腹案もなかった。けれどいつもゆきは俺に奇跡を起こす力みたいなものをくれる。確かに俺のたてた作戦は、完璧ですきがなく、よく練られている。その一方でその作戦はゆきとの会話の中で、勝手に生まれてきた、 妄想に過ぎない。

「ゆきは俺をばちーんっと殴って、俺を起したろう?俺はその時寝ていたんじゃない。作戦を目をつぶって思考していたんだ」

「そんなの嘘よ。よだれまで垂らしてたわ。それに私は殴ったんじゃなくって、びんたをしただけよ。少し強めに」

「違う。よだれを垂らすほどに深い思考の迷路に俺はいた」

「ふーん」

 

「行ってくる」

「いってらっしゃい!気を付けてね!」

そんなゆきの部屋のマンションの玄関で交わされた言葉やその風景ははもしかしたら、新婚さんに見えやしないか?俺は駅へ急ぎながら、笑いたくなるのを抑えるのに必死だった。幸せだったんだ。その駅への道は坂道を登っていくのだったが、俺は「宿はなし」を早くも歌い、その坂道を登って行った。

 

新連載8話:猫とベイビー

f:id:tamami2922:20201017201754j:plain

ゆきはおれの話を聞きながら、マルボロのゴールドに火をつけ、ふーっと吐いた。そして俺の話が終わると、それだけ?とでもいうような表情をして、こう言うんだ。

「私の元にはそんな話はいくらでも転がってるの。大抵の男性が似たようなことを家の玄関で宣言するわ。私はスリッパも出さず、「入ってよ」なんて言うこともない。それなのに、そういった人たちは、玄関で大声でしゃべるのよ。いずれは売れまくる大作家であるとか、いずれは有名な外科医であるとか、アバンギャルドなアーティスト、そんなことも言う人がいる。果ては現在のエジプト情勢を俺が何とかおさめ、ノーベル平和賞をとると言う人もいたわ。そういうの、もう飽きてるの。だから、もうそういうのはいいわ」

「もうそういうのはいいわ」

と言われてしまっても俺は考えていた。総理大臣とノーベル平和賞だったら、どっちがすごいのだろうか?そして心弱く、俺の方に分がないように思える。ノーベル平和賞。すごい。

 俺はとうとう床に両手をついてしまった。なにを言っていいのかもわからない。それなのに今俺はソファに座るゆきに両手をつくっていう格好で、何かを言わなきゃならない。

「俺はノーベル平和賞はとれない。すまない」

「いいのよ」

ゆきはそう言った。

 

 100メートルくらい

走りましょうよ。

 

いまのあなたって

捨てられて戻ってきちゃってごめんなさいっていう

犬みたいだわ

 

もういいからたまには走りましょうよ

100メートルくらい

わたしヒール履いてても

 

いまのあなたに追いつけるって気がする

そうなんかいもへこたれられても困っちゃうわ

 

  「ところで、いつ私にラーメンを作ってくれるの?」

「え?」

俺がゆきの言葉に対する感想は「え?」というもので「え?」でしかなかった。俺はゆきが腹を空かせているというのに、あらゆる、俺なりの努力はしてみたものの、結果、ラーメンを作ることに成功しなかったため、俺はゆきに俺が差し出したへその緒のようなシロツメクサのように、駅のゴミ箱かコンビニのゴミ箱かなんかに、名残惜しさもなく、捨てられると思っていたんだ。そしてこんな気分になった。過去なんてまるでないみたいだ。そして未来ってやつは厄介だ。よく見えやしない。過去もなく未来もよく見えず、あるのはただ、今だ。今ならはっきり見えている。ゆきがいる。

 俺の身体中の細胞が活動を始め、その細胞一つ一つが、俺は今生きている、と主張を始めている。おい、俺の細胞とやら、やっと目が覚めたらしいな。そして何もかも、俺の身体を構成する何もかもが、やっと目覚め、立ち、動き出し、生きているんだと喜びに叫んでいる。

 

 「めんてぼを盗むのよ」

「めんてぼを盗む?」

「そう、それしかないわ」

盗む。おれはそういうことは経験したことがない。そうだな、確かに中学の時に本屋で、いてもたってもいられず、エロ本を万引きした。それだけだ。けれど今、ゆきはめんてぼを盗むのだ、と言った。万引きだってそりゃ「盗む」ということと、何ら変わりがないのだろうが、それでも「盗む」という言葉で想起させるのは、何か犯罪の香りがする。それは確かに犯罪ではあるのだが。けれど「万引き」と「盗む」、つまり「窃盗」は何か大きく違うように感じる。ああ、そうかそりゃ「万引き」だって「窃盗」だ。

 そして感じる。「盗む」。これはゆきと俺にとって遊びじゃないんだ。食べるということ。これができなければ人ってやつは死んでしまう。食べるという行為は、そういう人間にとって最上級のレベルで語られるべき、大変重要で、大切な問題だ。そうだ。つまり遊びじゃない。俺は今夜、真剣にめんてぼを盗む。

 そう決意すると、俺は体の中に何か力が充満してくるのを感じた。地球のエネルギーを俺は今、足元から吸い取っている。そのエネルギーは、測られるのを拒む。なぜなら、測ることができない、そういう種類のものだからだ。俺は今、夕暮れではないが、オレンジ色に輝いているのを感じている。こういう時に沸くエネルギーは、ただ、まぶしくオレンジ色に輝くしかないものなんだ。俺は24。今それを知った。

「さあ、とりあえずフレンチトーストも食べたし、もう一回寝ましょう」

見るとゆきは濃紺のTシャツと、エルモの描かれたショートパンツを履いている。俺がエネルギー充填中にどうやら着替えたらしい。俺はもぞもぞとGパンを脱ぎ、ゆきの隣に横になった。眠ろうと思う。そうだ、俺は圧倒的に寝不足だ。寝よう。しかし、俺の中の、俺の身体の中の何もかもが、俺を眠らせようとしない。まるで今寝たら死ぬこともありうるっていう風に、俺の身体の何もかもがそう俺を騙そうとする。なに、寝たら死ぬわけじゃない。俺は思う。このまま眠れずに、そのまま明日も明後日も迎えてしまったら、俺は多分奇声を上げながら、新宿の交差点で服を脱ぎはじめ、そうやって死んでいくだろう。

どう考えたって寝ないということは、そういうことを意味している。

「眠れないんでしょう?」

「うん。どうしてなのかは分からないんだけど」

「私も」

「うん」

「じゃあ、寝物語ね、いい?きちんと聞いてよ?」

「うん」

「あのね、たいていね、私がお断りした人に多いんだけど」

「うん」

「こんな風に言う人がいる。『君はどうせ挫折を知らないんだろう?』って」

「うん。ゆきはそういう風に見える」

「これから話す話が、果たして私の挫折なのかそうでないのかは分からない。そして挫折ていうことが、一般的にどういうものかも私は知らないの。でも聞いてくれる?」

「うん」

「私高校一年生のとき、とても親しい友人ができたのね。私は昔から友達が大勢いるっていうタイプでもなかった。でもその友達には何でも話せるような、背を向けても分かってもらえるような、ずーっと話さないでいたって、この前話した話の続きだけどっていう風に、話し始められるようなそんな友達だった。私たちはね、何かとても自然な吸引力でお互いにくっついていくように、そんな風に仲のいい友達同士になれた。でもね、いつからかは分からない。はじめっから内包されていたのかもしれない。太い毛糸で編まれたニットが、裾からほどけていくように、ゆっくりとそりが合わなくなっていった。そうなの。どう表現していいか分からない。そりが合わない。そうとしか言えない感じだった。私は学校がつまらなくなった。勉強はもともと嫌いじゃなくって、勉強はしたかった。でもね、勉強もつまらなくなった。そして私は毎朝、学校へ行く前、おう吐するようになった。そして学校に行かなくなった。それでも私はおう吐するの。それは学校に行かなくなる前より、回数は多くなっていくの。うちの両親は、私が学校に行かなくなったことではなくて、私のおう吐を心配した。その頃私って罪だなって思った。近しい人に心配をかける。心配してくれてありがとうっていう人もたまにいるけれど、私は心配かけてごめんね。そう思った。そして高2になり、おう吐はぴたりと止んだ。そしてまた普通に学校に通うようになったの」

 

新連載7話:猫とベイビー

f:id:tamami2922:20201017201754j:plain

「ゆき、今はそのタイミングかい?」

「タイミングってなんのこと?」

「ほら、さっきゆきが言ってたじゃないか、そのタイミングでって」

「忘れちゃったわ。忘れちゃったけど、きっと今はそのタイミングじゃない」

「そうか」

「ああ、豚ちゃんを見ながら言うのもあれかもしれないけど、そうね、チャーシューメンじゃなくとも、チャーシューとシナチクが大盛りのラーメンが食べたいなあ」

俺は俺の包丁さばきでもって、さっき、ゆきに色目を使った豚を、輪切りにしチャーシューにするさまを想像し、殺気立った。

俺たちは流れるピンクの豚を見ていることしかできなかった。豚たちは今までずっと走るということに憧れていたんじゃないだろうか。いつかの早朝、ひたすらに走ってみたいと、思っていたんじゃないか。もう新宿も諦めかけている今、俺のゆきに色目を使わないのなら、という条件付きで俺も少し優しい気持ちになって豚たちの疾駆を眺めている。それはおそらく条件みたいなものが整ったからなんだろう。タクシーの中をただ前方だけ見つめて走りたいという気分と、つまり諦念だ。このままでは新宿に間に合わない。ゆきが何を今思っているのか聞きたくもない。怖くて聞けない。それなのに姿勢も崩さず、運転手に言う。

「ねえ、運転手さん、エアコン切ってもらえるかしら。私薄着で来ちゃったの」

「ああ、それはうっかりしてました。すみません」

「いいのよ」

 

 その新宿にあるラーメン屋に着いたのは、5時4分だった。俺は飛ぶようにタクシーから降り、閉まっているラーメン屋のシャッターを叩き続けた。俺は必至で叩き続ける。今までの人生は、だいたいサボっていた。そしてそんな人生っていうやつに対して、サボっちゃいけないなどと思わないでここまで来た。それはだってサボっちゃいないもののように、人生は俺の目に映らなかったんだ。24歳になる今まで。不細工でおっぱいの大きい女とセックスした時、確かにめくるめく興奮は感じたが、それに対して真剣になろうなどとは考えなかったし、俺の今までの人生は、たいていサボってもいいもので構成されていて、サボってはいけないと感じる瞬間など、ほとんどなかったんだ。

 しつこくシャッターを叩き続ける俺に、シャッターが目の前で開けられていく。奇跡を起こせる選ばれた人間である俺が、その時奇跡を起こした。そういう風に思えた。今俺は選ばれた人間、そうドラクエで言えば主人公の冒険家、ヒーローだと俺は感じたし、そういった思いに酔いしれていた。そして

「もう、店は閉めたんだ。帰ってくれ」

という坊主で、小太りで、でも腕の筋肉が盛り上がった、「招魂」と書かれた黒いTシャツを着た男に、

「めんてぼを貸してほしい」

と、堂々と言った。

「何寝ぼけてんだ」

その招魂男はそう言って、またシャッターを閉めた。

 

 

 

もし僕が万物の創造主になれたなら

 

君に

 

君によく似た芍薬の大きな花束と

キラキラ輝くダイアモンドと

アンティークなイス

 

みんなみんなプレゼントする

 

もし君がそれらを欲しいと願うのなら

今、僕はどうしたって万物の創造主っていうやつになってやるって

そんな気概が湧いてくるんだ

 

もし君がそれらを欲しいと願うのなら

 

 

 

そうさ、選ばれし奇跡を起こす人間、ヒーローであったって、世の中にはうまくいかないこともある。でももう終わってしまった。俺が本気で真剣になり、サボらないで向き合おうと思っていた、そんな恋愛は、春、咲いた桜の根元を小鳥が蜜をすったせいで、花弁も散らすこともなく、ぽとっと落ちるように、そんな風に終焉を迎えたのさ。なに次がある。そんな風には今現在全く思えないが。

 俺は帰りのタクシーの中で、全く力が出ないでいた。タクシーが右に傾けば「おっとっと」と身体も右に傾く、そんな風だった。俺は「さみしいな」と思う。それは自分の中でも分かっている。ゆきのせいでさみしいんだ。今この時に、今夜チャーシューメンネギどっさりの大盛りを食べてもさみしさが薄れるとはちょっと思えないんだ。俺にとってゆきは運命の人とやらなんだろうか?そしてゆきにとって俺が運命の人だなんて想像できない。俺はいつからここまで気が弱くなってしまったんだろうと思う。除籍になりそうになった時だって、堂々と「中退します」と言えた。でも今、タクシーの中で、何かを言おうたって言えないし、言うことがみつかったとしても「中退します」同様、堂々とは言えっこないんだ。俺は弱々しく、こう言うしかなかった。

「ごめんね。お腹が空いたろう?」

「そうね、確かにお腹は空いたかも」

「ゆきの家に食パンと卵と牛乳と砂糖とバターは、冷蔵庫に入っているのかな?」

「フレンチトースト。それなら私だって自信があるのよ」

緞帳の様な深い緑色のカーテンは開けられ、そしてゆきは窓も開け、今は女の子らしいレースのカーテンがはためいている、そんな気分のいい部屋で、俺はふさぎ込んでいた。さみしいんだ。食パンはなかったらしくて、セブンで買った。そして今、ゆきは黙ってボールに牛乳と卵と砂糖とバニラエッセンスを入れ、泡だて器でといでいる。俺のそばにもバニラエッセンスの香は漂ってきて、さようならというのは甘い香りがするんだっていうことをゆきは教えてくれる。

「ゆき、今はそのタイミングかい?」

「タイミングってなんのこと?」

「ほら、さっきゆきが言ってたじゃないか、そのタイミングでって」

「忘れちゃったわ。忘れちゃったけど、きっと今はそのタイミングじゃない」

「そうか」

「ああ、豚ちゃんを見ながら言うのもあれかもしれないけど、そうね、チャーシューメンじゃなくとも、チャーシューとシナチクが大盛りのラーメンが食べたいなあ」

俺は俺の包丁さばきでもって、さっき、ゆきに色目を使った豚を、輪切りにしチャーシューにするさまを想像し、殺気立った。

俺たちは流れるピンクの豚を見ていることしかできなかった。豚たちは今までずっと走るということに憧れていたんじゃないだろうか。いつかの早朝、ひたすらに走ってみたいと、思っていたんじゃないか。もう新宿も諦めかけている今、俺のゆきに色目を使わないのなら、という条件付きで俺も少し優しい気持ちになって豚たちの疾駆を眺めている。それはおそらく条件みたいなものが整ったからなんだろう。タクシーの中をただ前方だけ見つめて走りたいという気分と、つまり諦念だ。このままでは新宿に間に合わない。ゆきが何を今思っているのか聞きたくもない。怖くて聞けない。それなのに姿勢も崩さず、運転手に言う。

「ねえ、運転手さん、エアコン切ってもらえるかしら。私薄着で来ちゃったの」

「ああ、それはうっかりしてました。すみません」

「いいのよ」

 

 その新宿にあるラーメン屋に着いたのは、5時4分だった。俺は飛ぶようにタクシーから降り、閉まっているラーメン屋のシャッターを叩き続けた。俺は必至で叩き続ける。今までの人生は、だいたいサボっていた。そしてそんな人生っていうやつに対して、サボっちゃいけないなどと思わないでここまで来た。それはだってサボっちゃいないもののように、人生は俺の目に映らなかったんだ。24歳になる今まで。不細工でおっぱいの大きい女とセックスした時、確かにめくるめく興奮は感じたが、それに対して真剣になろうなどとは考えなかったし、俺の今までの人生は、たいていサボってもいいもので構成されていて、サボってはいけないと感じる瞬間など、ほとんどなかったんだ。

 しつこくシャッターを叩き続ける俺に、シャッターが目の前で開けられていく。奇跡を起こせる選ばれた人間である俺が、その時奇跡を起こした。そういう風に思えた。今俺は選ばれた人間、そうドラクエで言えば主人公の冒険家、ヒーローだと俺は感じたし、そういった思いに酔いしれていた。そして

「もう、店は閉めたんだ。帰ってくれ」

という坊主で、小太りで、でも腕の筋肉が盛り上がった、「招魂」と書かれた黒いTシャツを着た男に、

「めんてぼを貸してほしい」

と、堂々と言った。

「何寝ぼけてんだ」

その招魂男はそう言って、またシャッターを閉めた。

 

 

 

もし僕が万物の創造主になれたなら

 

君に

 

君によく似た芍薬の大きな花束と

キラキラ輝くダイアモンドと

アンティークなイス

 

みんなみんなプレゼントする

 

もし君がそれらを欲しいと願うのなら

今、僕はどうしたって万物の創造主っていうやつになってやるって

そんな気概が湧いてくるんだ

 

もし君がそれらを欲しいと願うのなら

 

 

 

そうさ、選ばれし奇跡を起こす人間、ヒーローであったって、世の中にはうまくいかないこともある。でももう終わってしまった。俺が本気で真剣になり、サボらないで向き合おうと思っていた、そんな恋愛は、春、咲いた桜の根元を小鳥が蜜をすったせいで、花弁も散らすこともなく、ぽとっと落ちるように、そんな風に終焉を迎えたのさ。なに次がある。そんな風には今現在全く思えないが。

 俺は帰りのタクシーの中で、全く力が出ないでいた。タクシーが右に傾けば「おっとっと」と身体も右に傾く、そんな風だった。俺は「さみしいな」と思う。それは自分の中でも分かっている。ゆきのせいでさみしいんだ。今この時に、今夜チャーシューメンネギどっさりの大盛りを食べてもさみしさが薄れるとはちょっと思えないんだ。俺にとってゆきは運命の人とやらなんだろうか?そしてゆきにとって俺が運命の人だなんて想像できない。俺はいつからここまで気が弱くなってしまったんだろうと思う。除籍になりそうになった時だって、堂々と「中退します」と言えた。でも今、タクシーの中で、何かを言おうたって言えないし、言うことがみつかったとしても「中退します」同様、堂々とは言えっこないんだ。俺は弱々しく、こう言うしかなかった。

「ごめんね。お腹が空いたろう?」

「そうね、確かにお腹は空いたかも」

「ゆきの家に食パンと卵と牛乳と砂糖とバターは、冷蔵庫に入っているのかな?」

「フレンチトースト。それなら私だって自信があるのよ」

緞帳の様な深い緑色のカーテンは開けられ、そしてゆきは窓も開け、今は女の子らしいレースのカーテンがはためいている、そんな気分のいい部屋で、俺はふさぎ込んでいた。さみしいんだ。食パンはなかったらしくて、セブンで買った。そして今、ゆきは黙ってボールに牛乳と卵と砂糖とバニラエッセンスを入れ、泡だて器でといでいる。俺のそばにもバニラエッセンスの香は漂ってきて、さようならというのは甘い香りがするんだっていうことをゆきは教えてくれる。そして卵液をかけられた食パンをレンジで数秒温め、卵液をたっぷり含んだ食パンは、たっぷりのバターを溶かされたフライパンで焼かれていく。そうなんだな。こういった別れというのは、俺にとって「惜別」というものなのだろうと思う。

 ゆきが作ったフレンチトーストは、俺が作るフレンチトーストより甘く、おいしかった。そしてそれを食べつくした今、それでも空腹でもなければ満腹でもない。俺がゆきに振られるだろうと思い、それを何とか回避したいと思い、諦めるしかないのかもしれないと思い、という中、俺は空腹感をなぜか忘れていた。そしてゆきに土下座したいという気持ちをさっきから抑えている。本当は今土下座をして、ラーメン屋で働くという特性しかない俺が、デート6回目で結局ラーメンを作ることができなかったことを謝り倒したいんだ。ゆきは

「いいのよ」

そう言ってくれるんだろうか?いや、俺はラーメン屋で働くという特性しかないとゆ

きははじめっからそう思っている。いまさら。いまさらなんだ。

 俺は突然、毛足の長いグレーのカーペットの上に正座した。

「ゆき、俺にとってもそのタイミングだと思うし、ゆきにとってもそうだって思うんだ。つまり俺はラーメン屋を辞める。俺はフリーターである俺を、酔っていたせいかくわしくは思い出せないんだが、確か内向的先進性とたとえたことがあるような気がする。本当いうとそんなことは思っちゃいない。ただ、大学入学時からラーメン屋で働き、それが今までずるずると続いていた。それだけなんだ。己のことを先進性なんてこれっぽっちも思っちゃいない。ただ、何かを始めるっていう勇気はあるけれど、それが成功するっていうことは、俺の人生にないような気がしていたからなんだ。だからだ、ゆきと出会ったその日から思っていたことを、今話したい。俺は努力して政治なんかも学び、ついでにマルクスエンゲルス資本論など読んだりして、区議会議員になろうと思うんだ。そして次のステップは区長、そして都議会議員、そしえて都知事、そしてそれから国政に打って出る。もしかしたら総理大臣だって任されるかもしれない。総理大臣ともなれば、スケジュールは分刻み、疲れ果て眠るだけの生活になるかもしれない。けれど。けれどだ。俺はそんなときも必ず、ゆきに電話をかける。そしてゆきがお腹が空いているのなら、ゆきの手を煩わせることなく、すぐにゆきのこの部屋に駆けつけ、ラーメンを作る。そのとき必ず俺はめんてぼを持っている。河童橋で買うのさ。そう、マイめんてぼ」

 ゆきが作ったフレンチトーストは、俺が作るフレンチトーストより甘く、おいしかった。そしてそれを食べつくした今、それでも空腹でもなければ満腹でもない。俺がゆきに振られるだろうと思い、それを何とか回避したいと思い、諦めるしかないのかもしれないと思い、という中、俺は空腹感をなぜか忘れていた。そしてゆきに土下座したいという気持ちをさっきから抑えている。本当は今土下座をして、ラーメン屋で働くという特性しかない俺が、デート6回目で結局ラーメンを作ることができなかったことを謝り倒したいんだ。ゆきは

「いいのよ」

そう言ってくれるんだろうか?いや、俺はラーメン屋で働くという特性しかないとゆ

きははじめっからそう思っている。いまさら。いまさらなんだ。

 俺は突然、毛足の長いグレーのカーペットの上に正座した。

「ゆき、俺にとってもそのタイミングだと思うし、ゆきにとってもそうだって思うんだ。つまり俺はラーメン屋を辞める。俺はフリーターである俺を、酔っていたせいかくわしくは思い出せないんだが、確か内向的先進性とたとえたことがあるような気がする。本当いうとそんなことは思っちゃいない。ただ、大学入学時からラーメン屋で働き、それが今までずるずると続いていた。それだけなんだ。己のことを先進性なんてこれっぽっちも思っちゃいない。ただ、何かを始めるっていう勇気はあるけれど、それが成功するっていうことは、俺の人生にないような気がしていたからなんだ。だからだ、ゆきと出会ったその日から思っていたことを、今話したい。俺は努力して政治なんかも学び、ついでにマルクスエンゲルス資本論など読んだりして、区議会議員になろうと思うんだ。そして次のステップは区長、そして都議会議員、そしえて都知事、そしてそれから国政に打って出る。もしかしたら総理大臣だって任されるかもしれない。総理大臣ともなれば、スケジュールは分刻み、疲れ果て眠るだけの生活になるかもしれない。けれど。けれどだ。俺はそんなときも必ず、ゆきに電話をかける。そしてゆきがお腹が空いているのなら、ゆきの手を煩わせることなく、すぐにゆきのこの部屋に駆けつけ、ラーメンを作る。そのとき必ず俺はめんてぼを持っている。河童橋で買うのさ。そう、マイめんてぼ」