今考え中だ

こじらせ中年って多いですよね。恋愛市場引退したいような、それでいて、私だってまだまだ的な。「まだまだ、ときめいていたいっ」っていう完璧リア充も多いけど、一方で、わたしなんて、いやー、もう、でも?みたいな人も多いと思うんです。つまらない日常からどうやって目をそらしてこう?というヒントが提示できたらという作品を書いていきたいと思っています。また、考えすぎて頭がバカとか変態になっていしまった方へ向けてのメッセージも込めてます。若い人にも読んでいいただきたい!死ぬからさぁ。

また新連載4:卒女生徒

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わたしは

「いつ?」

と尋ねる。意味がよくわからない質問かもしれない。けれど風のたてるビュービューという音のせいなのか、波のどすんどすんとテトラポットにぶつかる音のせいなのか、青年にはわたしの言葉が届かないみたいだ。そして今度は

「どこから?」

と尋ねる。これも意味がよくわからない質問だ。そして前回と同じく青年にその言葉は届かないみたいだ。

 温い温度と湿気。波がぶつかる大きな音。風が行き止まりにあったようなとぐろを巻くようなうねり。その時高波が来た。一瞬のことだった。波は青年もわたしだってさらう。海中に沈んでいく。鼻と口からブクブクと泡が出る。青年も見当たらない。そしてまた上昇する。すると白い汚れた、所々のペンキが剥げた船が浮かんでいる。わたしはそのヘリにしがみつく。見ると横に青年もしがみついている。船の中ではパーティーが行われていた。小さい子供もいるし、その子供のお母さんなのか、大ぶりのピアスをつけた若い女性もいる。そしてその人たちが囲む中心には火がたかれ、魚や反り返ったイカが焼かれている。わたしは「にっ」と微笑み、

「お邪魔しました!」

と言って手を離す。その瞬間目を青年に向ける。すると青年もわたしと同じく、

「お邪魔しました!」

と言って手を離したみたいだ。わたしはわたしの間違いに気がつく。青年を巻き込むべきではなかった。それは私固有の「お邪魔しました!」であったはずだ。それなのに青年は奇妙にわたしに従順だった。海中の中で揺られたり、青年に近づこうとしたり、自由になろうとしたり、ざっと押し寄せる、海上の波に押されるようにして、青年と近づいた。そして青年が口をパクパクさせて何かを言ったようだ。わたしにはそれが何を言っているのかわかる。

「もう、竜宮城へ、行こう」

わたしもうなずいてみせる。そして青年は視界から消えた。青年は一人で天にあるのか底にあるのか、わたしにはわからない、竜宮城の門を叩いたのだろう。また私だけになった。一人ぼっちになった。でもそれはわたしだけが助かったっていうことかもしれなかった。ブクブクブクという泡の音がいつまでもいつまでも聞こえる。

 

 冬だから洗濯物も少ない。今日洗ったのは、バスタオルとシーツ、枕カバーと下着類だ。そして干してしまってから、遅い朝食を食べる。フルーツグラノーラ。ダイエットのためだ。最近は温めた牛乳をかけている。まあ、悪くはないけど、特に美味しいとも思わない。というか多分これに飽きている。今日はお隣さんに出遅れた。お隣の一人暮らしの中年の男性は必ず日曜の朝、掃除機をかけるのだ。そして出遅れたものの慌てて掃除機をかけだした、わたしの持っている掃除機の音と、お隣さんの掃除機の音がなんだかハモるような気がして愉快だ。そしてお隣さんの掃除機の音に、「夢じゃないかもしれない!」とか「ちがーう、君一人じゃない」と歌ってみる。いいぞ。いい調子だ。それなのにお隣さんは先に掃除機のスイッチをオフにしてしまう。なんだ、つまらない。ここからがいいところ。そう清志郎のイマジンでした。そして食器を洗う。それを済ませてしまえば特にやることはない。家にはテレビがない。なんだか若い頃からテレビっていうものに馴染めなかった。テレビっていうのはお風呂に入るみたいに、ぼんやりと見るものに思える。けれどわたしはどうしても、ぼんやりすることができないから、自然意識はテレビから離れてしまう。でもこんな時思う。テレビをつけてベッドに横になる。ぼんやりとして、ぼんやりとうたた寝をする。そういうのっていいのかなって。でもわたしはきっとテレビを買わないだろうとも思う。そういえばヒロコの家のテレビはバカでかかったなあって思う。ああいうの何インチとか言うのだろう? やたらデカかった。それだけでとても威張っているテレビだった。

 することがないっていうことは人にとても緊張を与えるものだ。今わたしもそれにとらわれつつある。パソコンでYouTubeを開こうとも思わないし、本を読もうとも思えない。そんなときはとても孤独を感じる。孤独なんて当たり前だと思ってた。それが誰もがだって。けれど今感じてる孤独は本物だって自信がある。電話も鳴らず、電話をかけようとも思わない孤独。つながりたい。けれどそのための手段は何もかも禁じられている。それは、わたしが邪魔だからだ。それはとってもじわっと湧いてくる孤独だ。することがない。それは本当の孤独だって、だいぶ前に気がついた。気がついたときはびっくりした。あ、今、わたし孤独なんだっていう発見をしたような気がした。じわじわと肩が凝ってきて、吐き気がし、唾を何回も飲み込む。音楽を聴こうと思って止めた。何度も読んだ夏目漱石の行人をパラパラとめくる。拾い読み。そして思った。

「わたし、もう行かなくちゃ」

「いいよ、君一人のオーディエンスを失うことくらい」

「だってきつくわたしの手を握っているのはあなたよ?」

ふふふ。そんなことを想像した。つまりミュージシャンにしても作家にしても、孤独なさみしがり屋だっていうことだ。さみしんぼう。手をやすやすと離してはくれない。なんだかんだ言って手を離さない。なんだ。オーディエンスであるわたしたちの方が、肩が凝って何回も唾を飲み込むっていう作業を、なににも誰にも、道具も使わず、繰り返して耐えている。あ、そうか。それがテレビの正体なんだ。まぎらわすっていうツール。「まぎらわす」を買おうかなってちょっと思って、やっぱりやめておこうと思う。映画やドラマを見る気もあんまり起きない。わたしはどうやらキラキラしたものが好きみたいだ。ダイアモンドでもスワロフスキーでもない、星空や汗のきらめき。

 きゅうりと茗荷の簡単なおしんこ。これはわたしの大好物で、あとは鮭を焼いておにぎりを作った。日曜日、寝坊してずれてしまっている、お昼ごはん。もう2時半だ。それらを食べてしまうと、ムートンの敷物にピンクのフクロウの絵が描かれたクッションを枕に横になる。労働の反対がくつろぎ。そうだとしたら今日は労働していないからこんなに緊張しているのかな? いや、月曜から土曜日まで働いた。土曜は半日だけれど。土曜はなぜなら午前しか診療がないからだ。その反対の日曜日。そういうわけかな?

 ドレスとか大ぶりな宝石のイヤリングとか、羽がたっぷりついたハットとか、大きな船とか、そういうの、わたしの人生に関係がないのかな? やっぱりわたしが愛想なしのせいなのかな? そう思ったとき、わたしの想像力の貧困さ、つまり船から出られない想像力に、自分で笑いだしてしまった。そしてそのわたしの「あはは」がお隣にも聞こえたかな? テレビをつけている様子もないわたしが、「あはは」って笑ったこと。それがお隣にも聞こえたかなって思ったら、また大笑いしてしまった。愛想がない女が馬鹿笑い。これは結構面白い。葦ってやつは考えます。葦ってやつは悩みます。葦ってやつはダイエットをします。そして時々バカみたいに笑います。けれど、苦しんでいます。大人になろうと。大人であっても。そうやって朝ごはんにフルーツグラノーラを食べています。今ね、わたし49キロ。いつかね、45キロを切ってみたいの。でも48キロに一瞬なって、大喜びした後に、次の日は49キロに戻っていたりする。すごくつまんない。ほんっとうにつまらないって思う。自分がつまらない病かって思ったりするほどつまらない。あーーーつまらない。それってなんか自分が点のようなありのような存在になってしまったようなつまらなさだ。ああ、お父さん、お母さん、わたしは49キロまで育ちました。育ててくれてありがとう。