今考え中だ

こじらせ中年って多いですよね。恋愛市場引退したいような、それでいて、私だってまだまだ的な。「まだまだ、ときめいていたいっ」っていう完璧リア充も多いけど、一方で、わたしなんて、いやー、もう、でも?みたいな人も多いと思うんです。つまらない日常からどうやって目をそらしてこう?というヒントが提示できたらという作品を書いていきたいと思っています。また、考えすぎて頭がバカとか変態になっていしまった方へ向けてのメッセージも込めてます。若い人にも読んでいいただきたい!死ぬからさぁ。

わたしの方が才能があるのです

先生こんばんは。現在7月21日、AM2時26分

又吉が芥川賞を取りました。

わたしの方が才能があるのです。わたし自身、生涯に本を何冊読んだかなんて、自身わかりませんし、わかっている人の方を不思議に思ってしまいます。

そして今、腹を立てている最中なのです。

 わたしには才能があります。絶対に才能があります。わたしは光沢のあるジュエリーボックスを持っています。その中に大きなダイアモンドが入っています。又吉はそのわたしのジュエリーボックスを開けてみて、「なんだ、河原に落ちている白い石ころじゃないか」と思うかもしれません。でもわたしはそのジュエリーボックスを持って、ひたすら薬を飲みながら、生きて、居場所があるようあんないような、そんな気分で落ち着かなく過ごしているのみなのです。結婚という結果はわたしにとって、幸ではありましたが。

わたしの才能の内訳をお教えしましょう。それは又吉がジュエリーボックスの中の河原の石ころを見て、「おい、これは河原に落ちている、白い石ころだぞ」とわたしに言っても、わたしは又吉に「何を言っている、これは大きなダイアモンドだ」ときっぱり言い切る、それがわたしの最大の才能なのです。

又吉に言いたいことがあります。太宰治の「人間失格」を私はずっと駄作であると思っていました。なんというか「病気も悪く、精神状態も悪く、疲れている」そういう自分にだらしない作品だと思います。太宰治の作品んで優れていると思うのは、素晴らしい筆致で描かれた初期の作品「思い出」であるとか、充実した中期に書かれた、「黄金風景」や「富嶽百景」であると思います。「きりぎりす」もそうです。

わたしは本が好きですが、なかなかに読めない時期が訪れたりもします。けれど読み手として優れていると自分では思っています。それはもしかしたら、一日に交替交替に、4冊くらいを読んでいた、高校時代、大学時代の乱読の時期があったからかもしれません。村上春樹を読んだって、力瘤の入りすぎた導入部と、作品の入口が違うことも読めるし、だいたいの作品上、読み手としてできている方じゃないかと自分では思うんです。

 友達に聞きましたが、又吉はなにやら「人間失格」にマーカーを引きながら、作品を書いたということらしいですが、なぜ又吉は太宰治の失敗作をそんなに研究したのか、わたしにはわかりかねるし、わかってねえなっていうのが感想でした。優れた読み手ではなくとも書けるという証拠でもあるのかもしれませんが。

 吉本隆明もどこかに書いていましたが、「走れメロス」が最後の末尾でユーモラスな場面を描き、それが内容が道徳的な「走れメロス」の倫理観を超えた、作品としての昇華として、というより、太宰治が小説を書く際の、「小説を書くということの倫理観」としてあの部分を入れざるを得なかった太宰治の気持ちも理解できるのです。

 とにかくわたしは又吉よりも優れているのです。わたしは光沢のあるジュエリーボックスを大切にしていて、家事になったら、きぃとポコは順ちゃんに任せて、わたしはジュエリーボックスを持ってアパートを逃げるつもりです。

 だってそこには信としたダイアモンドが入っているのですから。

 

 

 

・少年A

少年A(以後Aは割愛する)の本が出ました。そのニュースに触れたとき、少しの違和感と、嫌な気持ちになりました。

おそらく、その嫌な気持ちの大部分が、印税です。読んでいないけれど、少年が「自己救済のため」と言っているのを、セブンで週刊誌を立ち読みして知りました。それはよくわかるのです。わたしの過去の自殺未遂の数々は、強い破壊衝動と、自己救済であったということは今なんとなく思います。けれど、と考えました。そういった印税の行く先の嫌な気持ち、それを凌駕するやはり、「表現の自由」、そこはそうであるのかなと思いましたが、第一報を聞いたときに感じた、「嫌な感じ」、これを忘れてはいけないし、そこを分析しないといけないのかなって想います。

 

・ああ、

昨日徹夜でエラリイクイーンの「九尾の猫」を読みました。起きてから、なんか読みたくって、島尾敏夫の「日の移ろい」を少し読んで、島尾敏夫の奥さんの究極の良妻ぶりと究極の悪妻振りを感じまして、その後は夏目漱石の「行人」を読んでいて、どっちにしても「ああ、面白いなあ、すごいなあ」と感心しきりです。

 

・才能は整っているけれど、

頑張って修練します。というのもわたしの作品には特色があって、それは「あなただから言うけれど」という筆致があると評されたことがあり、それはかけがえのない、才能と特色であるらしいのです。そして自分で自信を持っているところは、人の感情の機微を、わたしはうまく切り取って、表現するのが得意だという自信があるからです。

・洗濯機

洗濯機が故障し、一昨日の朝から夜中まで、洗濯機を解体して直そうとしたのですが、直らず、結局うちの親に、35000円借りました。これを「情けない」と思うべきなのでしょう。

 

オススメ本

吉本隆明著「フランシス子」。これは吉本隆明没直前に作られた本ですが、はかなさと、生まれて死ぬという感覚が伝わってくる名著。

そして前も言ったんですけど、やっぱり吉本隆明著の「シモーヌ・ヴェイユ」の作品はいいですよ。思想の本ですが、一つのシモーヌ・ヴェイユの人生が描かれた、小説のように読めます。

あとはもう若い頃から何度も読み返しているのですが、吉本隆明著の親鸞に関する本は夏目漱石をしばらく読んだら、本気で読もうと思っている本です。

でもですね。エラリイ・クイーンの作品は推理小説なんだけど、どれもとても優れた作品です。

夏目漱石

夏目漱石は共同体を人類に置いている。バイセクシャルだと思うのですが。

わたし自身は夏目漱石の思い描いた、理想の夫婦像に近い夫婦を順ちゃんとやっているっていう気がしています。閉じていて、そこに親和感が流れているというような。奥さんが人並みっていうか、外に開いていてはダメなんですよね。夏目漱石の目指した理想の夫婦像ってそうじゃないかって思うんです。

例えば旦那が「お隣の家は金持ちだから、家族全員皆殺しにして、お金を盗もう」と言えば、嫁は「そうだね、そうしよう」と間髪入れずに言える。わたしが思う良妻とはそうじゃないかと思えるんです。旦那が何かを言ったら嫁が「わたしもそう思う」と言い、嫁がなにかを言ったら「俺もそう思う」と言える関係。これがどうであれ、どんな夫婦であれ、理想の夫婦像ではないかと思います。

推理小説

面白いですよ。特に昔のやつの方が面白いです。エラリイ・クイーンなんて、ちょっとそんじょそこらの純文学に負けない、厚みのある本です。

・読めないんだなあ

わたしはなぜかドストエフスキーが読めないのです。どうしてかはわかりません。しばらくしたらもう一回トライしてみようかなって思っています。

 

・そしてわたしのジュエリーボックスに入っているのは、キラキラと輝くダイアモンドなんです。