新連載4:猫とベイビー
かなり長いことトイレに入っていたらしい。ゆきはタオルケットにくるまるようにして、寝息を立てていた。もちろん俺もその傍らに横になるつもりだった。そして寝ているゆきに異常に興奮を覚えたんだ。はじめは柔らかく背に腕を回して起こそうとしたが、次の瞬間少し乱暴にタンクトップをまくり上げ、ショートパンツも脱がせて
「何?」
というゆきの口をふさいだ。俺は結局柔らかく、キズなどつけないよう、丁寧に抱こうと思ってたんだけど、そうできなかったんだ。そして俺がトイレから出てきたとき、もしゆきの目がパッチリ開いていたら、そんな第2戦目はなかったんだと思う。もしゆきが目を開けていて、第2戦目を始めたとしたら、第1戦目と同じ結果に終わったと思うんだ。もし目に意志が宿っていたら。
もし僕が万物の創造主になれたなら
君に
君によく似た芍薬の大きな花束と
キラキラ輝くダイアモンドと
アンティークなイス
みんなみんなプレゼントする
もし君がそれらを欲しいと願うのなら
今、僕はどうしたって万物の創造主っていうやつになってやるって
そんな気概が湧いてくるんだ
もし君がそれらを欲しいと願うのなら
深夜3時過ぎ、俺はゆきに起こされた。物腰が優しく、っていう起こしかたじゃないんだ。俺は何発もゆきにびんだをされた。俺は一瞬何が起きているのか分からず、
「なんだよ」
と声を荒げてしまったら、
「最近じゃ、とんとモテないんでしょう」
とつまらなそうに言って、またびんたをする。俺はだんだん理解した。この部屋はゆきの部屋でさっき、ゆきを抱いたんだっけ。今俺の顔をびんたしているのはゆきだ。
そして俺は「なんだよ」と昔モテたころの女に対するような、そんなぞんざいな言葉と態度をとってしまったことを、突然の歯痛のように後悔する。
そして目を開け起きると、そこにすっぴんのゆきがいて、なおも俺の顔をびんたし続けようとしたので、俺はあわてて、ゆきの腕をつかんだ。そうさ、俺は小学校の頃、少林寺拳法を習っていたんだ。
それにしてもゆきはすっぴんだった。昨夜は確か「そこまでは、親しくない」とかそんなことを言っていなかったっけ?俺は首肯し、確かに了解だ、という旨をゆきに伝えたはずなんだ。それともなんていうんだろう、したからと、それを指して、「俺と親しくなった」とゆきの中で思ってくれたんだろうか。
「私が電気をつけて私がすっぴんでいることに対して、何らかの意味をつけないで頂戴ね。そして何度も『健二君』と呼んでも、身体をゆすっても、健二君は目を覚まさなかった。それでびんたを繰り返した。何回ものびんたに対する意味はそれよ」
「俺を、親しい男と認めてくれたのか?」
「さあね」
見るとコーヒーテーブルに満載だった、空き缶や菓子の袋、ウインナーが盛られていた皿なんかは、きれいに片づけられていた。そして俺がウインナーを食べるた時に汚してしまったケチャップの跡も消え去っている。布巾でテーブルはきれいに拭かれたのだろう。そのテーブルに青くて、蓋のある灰皿で、ゆきはたばこを吸っている。その動作は柔らかいものの、女郎のような、なんていうだろう、女性がやけっぱちになって、「どうでもいいのよ。疲れてるんだから早くして」というような雰囲気が漂っているんだ。俺は少し理解した。セックスを終えて変わるのは男だけじゃない。女もだ。しかし俺たちのケースの場合、変わったのはゆきで、俺は変われないんだ。どうしてかっていうと俺は、何かを手に入れたっていう、安心感を持てないでいる。
「とにかく私はお腹が空いたの」
ゆきはたばこを吸い終えると、ベッドで上半身を起こし、ぼんやりしている俺に言う。
「あなたはラーメン屋でしょう?それ以外の特性なんて見当たらないわ。ラーメンを作ってちょうだい」
俺は絶望した。どうやらゆきが俺を選んだのは、俺が、ラーメン屋で働いている24歳、いや、「ラーメン屋で働いている」かららしい。それ以外の特性なんて見当たらない。俺はこれからどうして生きていけばいいのだろう。そこまで絶望した。死ぬしかないのだろうか?俺はラーメン屋で時給で奴隷のように働いて、動けなくなったら、介護ヘルパーを呼び、下と風呂の世話をしてもらい、そしてしばらく生き、そして死んでいく。そんな未来しか俺にはないのならば、今いっそ死んでしまった方がいいんじゃないだろうか。そして再度回顧するんだ。もしかして俺が大学を結果中退となったのは、俺が自分自身で思っているほど、モテなかった。そこに尽きるのではないかと。ラーメン屋に働く女だっている。ちょっと可愛い子だっている。俺はそんな子がバイトとして入ってくると、少し意識してしまう。でも彼氏がいたりとか、ほかの奴にかっさらわれたりとか、そんな風に尻すぼみになってしまう。そうだ。多分大学入学時18歳から今まで、計6年間俺はモテていない。というか女性と付き合っていない。一回のぞき部屋にいったことはある。それだけだ。そののぞき部屋で体験したことは猛烈な「助けてくれ!」という誰に助けてもらいたいのか分からないが、そんな気持ちと、自分がどんどんバラバラになっていくような、そんな吐き気がするような気分を味わった。それだけだったんだ。だから俺はデートの6回、その
間喫茶店でゆきの爪しか見ることができなかったのだし、うまくふるまえなかったんだ。過去、そうだ、俺が感じるより遠い過去なんだ。その過去、中学高校とモテたって、それはずいぶん前の話で、俺は今現在モテるっていう男じゃないのかもしれない。だからゆきだって俺にラーメン屋以外の特性を見つけられなかったんだろう。俺は黙って作戦を練った。俺にラーメン屋であるという以外の特性が、今現在ないのならば、それ以外の特性を身に着けるほかはないのかもしれないが、とりあえず現在、ゆきが俺がラーメン屋で働くという特性で俺を選んだのだとしたら、今の急務はおいしいラーメンを作ること、それ以外にないんじゃないだろうか。しかし困った問題が、俺とゆきの恋路を阻む。
「めんてぼがないんだ」
「めんてぼ?」
「うん、めんてぼだ。俺はその『めんてぼ』を漢字で書くすべがあるのかさえわかっちゃいない。けれどラーメンを作るには、絶対にめんてぼが必要なんだ。めんてぼ。これを俺が今持っていたらなあ!」
「めんてぼ?それって何をするためのものなの?」
「ほら、ラーメン屋でカウンターに座ると、見ることがないかい?あの麺をシャン、シャン、シャンとする奴。あれなんだ」
「ああ、私も見たことがあるわ。しゃしゃしゃってやるやつね」
「違うんだ。しゃしゃしゃじゃない。シャン、シャン、シャンってやるやつだ」